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手光波切不動古墳 (てびかなみきりふどうこふん)

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福岡県福津市手光
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◆◆◆◆◆ 手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん) ◆◆◆◆◆

 福津市手光の県道97号線(旧3号線)沿いに一対の石柱が立っています。その奥が手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)です。 7世紀に作られた円墳で石室に巨大な切石を使っているのが特徴です。

現地の案内板の内容を掲載します。

手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)
石室の特色
 この古墳の石室は一辺が1.5m程の切石が使われており、床面にも同様な石が敷かれています。
ここより北西約1kmの津屋崎町宮地嶽神社にある宮地嶽古墳もこの点が共通し、 両墳が何らかの形で関連性をもつと考えられます。
なお、この石室の平面形は、前室の幅が羨道や後室に比ベー段広くなる特徴があります。
石材は主に三郡変成岩(硅質片岩・砂質片岩・泥質片岩)で一部に礫岩が使われています。

周辺の古墳
 周辺には、5世紀から6世紀頃の古墳が多く存在します。
現在、光陽台となっている丘陵では手光古墳群として11基の古墳が調査され、 蛇行状鉄器(鞍に付ける旗竿用の金具)などが出土しています。
また、当墳の西側約50mの民家の庭にも露出した石室が1基ある他、 未調査の古墳も多く残っています。

古墳の年代
 築造年代を推定できる遺物は今のところ出土していません。 しかし、石室に巨大な切石を使う点などから古墳時代終末期の7世紀頃造られたものと考えられます。
この時期は一般的に古墳の築造が少なくなったり、造り方が雑になったりする一方で、 切石を使うなど丁寧な造りの石室をもつ古墳も少数認められます。
福津市教育委員会

 文久3年(1863年)青柳種信 著『筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふどきしゅうい)』にも、この手光波切不動古墳のことが、このように書いてあります。
畝(畦)町より津屋崎へ至る道(旧郡道)の右の傍、当村(手光)の内、大志登と云所に大石窟有。
宮司村の窟(宮地嶽古墳)につげり。入口高四尺一二寸、横四尺、其奥に三ヶ間有。 中の問(副室)、高六尺七寸・横五尺・入五尺九寸。其奥の間(玄室・被葬者を安置した室)、 横四尺・入六尺六寸。中の間と奥の間との間に、高壱尺八寸或は壱尺六寸の大片石ありて隔をなせり。
惣計入三丈五尺、天井の大石わずかに四枚、壁石一方に五枚を双(並)べて造れり。 其営造人に非るかと恠(あや)しまる。上古高貴の人を葬りたる冢なるべし。 近年窟中に不動(明王)を安じて岩屋不動(現在は波切り不動尊)と云ふ。

 これを見ると江戸時代の後期にはすでに古墳は開口され不動(明王)を祀っていたことが分かります。
この手光波切不動古墳は宮地嶽の奥の院になっている宮地嶽古墳と規模や作り方も良く似ているようです。
この二つの古墳は古墳時代末期の最後に作られた古墳であろうと推測されており、 どちらかというと宮地嶽古墳が少し早くて作られ、手光波切不動古墳が少し後にできたと思われています。

  宮地嶽古墳の被葬者は七世紀後半に亡くなったであろう、この地方の豪族 胸形の君・徳善であろうとする歴史家も多いようです。余談ですが、今の「宗像」は「宗形」「胸形」「胸方」「胸肩」といろいろ表記していました。
その胸形の君・徳善の傘下にあった豪族たちが埋葬されたのであろうと思われているのが手光波切不動古墳です。

 明治時代に書かれた「福岡県地理全誌」には「不動窟」という名前で「十六躯の石仏が祀ってあり、宗像四国霊場第四十五番の札所である・・・」とあるが、 今は入口の石仏はありません。二十数年前の写真にもあるから、平成になって無くなったようです。

※ 掲載した内容は 2014年 9月 5日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画案内(約5分)

 
 


 ◆ 手光の県道97号線(旧3号線)沿いにある手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)
手光の県道97号線(旧3号線)沿いにある手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)


 ◆ 不動明王の文字 海軍造兵大佐 今井博歳 謹書とある
不動明王の文字 海軍造兵大佐 今井博歳 謹書とある

 手光波切不動古墳の入口に、ごろんと無造作に石の額が置いてある。昭和七年に奉納された(奉納者は良く判別できないが小柳久太朗 氏かな?)ご詠歌が刻んであります。その内容は
「四国四十五番 いわや山」 とあり 「大せうの祈る力のげにいわや、いしの中にも極楽ぞある」

 この手光波切不動古墳は「いわや山」と云われていたようですね? ちなみに宗像四国霊場は明治35年(1902年)に再編成が行われ、今は宗像新四国東部霊場と宗像新四国西部霊場に分かれています。 この手光波切不動古墳で、そういう霊場の看板をみなかったので、今は霊場ではないようです。

 (福間町)ふるさと文化財探訪記(平成3年 福間町教育委員会出版) を見ると「落石設備工業の敷地内にも一基の古墳がある・・・」と書いてあるので、落石設備工業に行ってみました。 おばあさんが出てこられて、「うちの方は古墳の裏で石が少し見えるだけ、表は隣だからそちらに行きなさい。」と言われた。
まあ、せっかく来たので写真を撮ったが、古墳の石と思われる石が数個、露出している程度だった。
それで隣にお邪魔して撮った写真が下の方にある写真です。ほとんど古墳は崩れていました。1000年以上の歳月が過ぎているので無理もないですね。

 ◆ 二本の石柱が建つ手光波切不動古墳入口
二本の石柱が建つ手光波切不動古墳入口
 ◆ 案内板 ※ ビッグ写真はここ
案内板

 ◆ 円墳のレイアウト ※ ビッグ写真はここ
円墳のレイアウト

 ◆ 築造当時は、高さ約10m、墳径は20mを超えていたものと推測される横穴式巨大古墳
築造当時は、高さ約10m、墳径は20mを超えていたものと推測される横穴式巨大古墳

 ◆ 昔はあった入口周辺の石仏が無くなっている
昔はあった入口周辺の石仏が無くなっている

 ◆ 平成2年(1990)頃の写真は石仏がある
平成2年(1990)頃の写真は石仏がある
 ◆ 今はなにもない。 盗られたのだろうか?
今はなにもない。 盗られたのだろうか?

 ◆ 手水鉢と石灯籠の上の部分がある
手水鉢と石灯籠の上の部分がある
 ◆ 昭和七年に奉納されたご詠歌の額がある
昭和七年に奉納されたご詠歌の額がある(奉納者は小柳久太朗かな?)

 ◆ 古墳は中に入ると驚くほどの巨石でできている
古墳は中に入ると驚くほどの巨石でできている

 ◆ 巨石は突起を削り表面がきれいに磨かれているのが、この古墳の特徴
巨石は突起を削り表面がきれいに磨かれているのが、この古墳の特徴

 ◆ この巨石はどこから持ってきたのか? ・・・・・ 相ノ島から持ってきたと推測されています
この巨石はどこから持ってきたのか? ・・・・・ 相ノ島から持ってきたと推測されている

 ◆ 一番奥の玄室(後室)には不動明王が祀られている
一番奥の玄室(後室)には不動明王が祀られている

 ◆ 一番奥の玄室(後室)が遺体を安置した場所
一番奥の玄室(後室)が遺体を安置した場所

 ◆ 一番奥の天井の石が一番面積が大きな石だそうだ
一番奥の天井の石が一番面積が大きな石だそうだ

 ◆ 床も巨石が敷いてある。 玄室(後室)の前の前室の幅が少し広いのがこの古墳の特徴
床も巨石が敷いてある。 玄室(後室)の前の前室の幅が少し広いのがこの古墳の特徴

 ◆ 巨石が並ぶが・・・・
巨石が並ぶが・・・・
 ◆ しかし、厚みは薄いようだ(20〜30cm程度か?)
しかし、厚みは薄いようだ(20〜30cm程度か?)

 ◆ 裏に回ると住宅街の一角にこんもりと緑が茂る小山である
裏に回ると住宅街の一角にこんもりと緑が茂る小山である

 ◆ ぎりぎりまで住宅が迫っている
ぎりぎりまで住宅が迫っている




 ◆ 北側、落石設備工業の敷地内にも一基の古墳がある
北側、落石設備工業の敷地内にも一基の古墳がある

 ◆ 緑が残っているところが、もう一つの円墳
緑が残っているところが、もう一つの円墳

 ◆ 落石設備工業の方は古墳の裏側だそうだ
落石設備工業の方は古墳の裏側だそうだ
 ◆ いくつかの石が見えるだけ
いくつかの石が見えるだけ

 ◆ 隣の民家の方が古墳の入口
隣の民家の方が古墳の入口
 ◆ 入らせていただくと庭の池の先に古墳はあった
入らせていただくと庭の池の先に古墳はあった

 ◆ ほとんど崩れて石が露出している円墳
ほとんど崩れて石が露出している円墳
 ◆ 庭に転がっている石も古墳の石のようだ?
庭に転がっている石も古墳の石のようだ?
 ◆ 手光波切不動古墳 動画案内(詳細版 約5分)
手光波切不動古墳の動画案内


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 ◆ 宮地嶽古墳 (中に入れるのは 1月28日、2月28日、7月28日の年に3回だけ)
宮地嶽の奥の院になっている宮地嶽古墳 (中に入れるのは 1月28日、2月28日、7月28日の年に3回だけ内部に入ることが出来る)


 
 

◆◆◆◆◆ 手光波切不動古墳:報告書 ◆◆◆◆◆

 2010年と2011年に行った手光波切不動古墳の発掘調査報告書が2013年6月に出ました。 新羅に関係する土器や韓国に類例のある馬具。沖ノ島の祭祀土器に似た器台など、貴重な遺物が発見されたようです。
詳細はここをみてください。====>●手光波切不動古墳の調査結果(PDF)

 また、手光波切不動古墳は7世紀前半の築造ということのようです。そうなると宮地嶽古墳の被葬者は胸形の君・徳善でないということになりますね。 なぜなら徳善は西暦684年に天皇より朝臣(あそみ)という名前を授かっているので、徳善は少なくとも 684年には存命だったことになります。そして手光波切不動古墳が宮地嶽古墳より新しいとするなら、宮地嶽古墳も7世紀前半に築造されたことになり、被葬者が徳善という説も 無くなるのだが? はたしてどうなのだろうか?

 
 


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