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◆◆◆◆◆ 新原・奴山古墳群 ◆◆◆◆◆

 福岡県福津市勝浦字新原地区と福津市奴山地区にまたがる東西800mの低い丘陵地帯に前方後円墳5基と円墳53基、方墳1基があり福岡県でも有数の古墳群となっています。 (現地の説明板では古墳の数は前方後円墳5基と円墳42基、方墳1基となっていますが、この数字は古いようです。)
この計59基の古墳群の中で一番古いと思われているのが22号古墳の前方後円墳です。全長80mあり、大きさも一番大きい古墳で、埴輪が出土しているそうです。
22号古墳は前方後円墳でしたが今は後円の部分だけが残っており、西側に縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居があります。かっては縫殿宮(ぬいどのぐう)の社殿が頂上に建っていたそうです。 今は頂上に縫殿宮(ぬいどのぐう)の小さな祠があるだけです。大正六年の鳥居が建っていますからその頃には社殿があったものと思われます。
近くの奴山(ぬやま)地区には日本最初の裁縫(さいほう)の神様と云われている縫殿神社(ぬいどのじんじゃ)という神社がありますが、 縫殿(ぬいどの)の名前も同じです。この2つの縫殿神社と縫殿宮は直接の関係はなく、奴山地区では縫殿神社を建て、新原地区では22号古墳の上に縫殿宮(ぬいどのぐう)を建てて、別々に呉から来たという4人の姫を祀ったのではないかと言われています。
最初は縫殿宮(ぬいどのぐう)は縫殿神社(ぬいどのじんじゃ)の元宮だったのか、それとも御旅所だったのかと勝手に想像しましたが、そうでもないようです。

 この新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)は5世紀前半から6世紀にかけて造られており、古代の宗像地方の豪族の胸形の君(むなかたのきみ)一族の墓と考えられています。
胸形の君(むなかたのきみ)は今の宗像大社の大宮司家で古代にはこの宗像地方を治めていた海人族(あまぞく)です。

 余談ですが、今の「宗像」は昔には「宗形」「胸形」「胸方」「胸肩」といろいろ表記していました。胸形の君(むなかたのきみ)と書いた資料が多いので、ここでは胸形の君(むなかたのきみ)の書き方に統一します。
 7世紀前半ごろ胸形の君(むなかたのきみ)一族を代表する族長王クラスの人物であった胸形の君(むなかたのきみ)・徳善には三人の子があり、嫡子・鳥麿、女子・尼子娘((あまこのいらつめ)、二男・加麻麻岐でした。 その女子・尼子娘(あまこのいらつめ)を天武天皇の采女(うねめ)として上らせ、西暦654年に第一皇子・高市皇子(たけちのおうじ)を生んだのです。高市皇子は母親の身分が低いという理由で天皇になれなかったが、 ひょっとしたら天皇の祖父になったかもしれないのが胸形の君(むなかたのきみ)・徳善なのです。
徳善はこの地方で絶大な権力をもっており、九州北部、沖ノ島、朝鮮や中国大陸までの海道を牛耳っていた海人族(あまぞく)だったようです。
時あたかも、日本を取り巻く国際情勢は風雲急を告げていました。だから、大和朝廷も胸形の君(むなかたのきみ)・徳善を無視できなかったのです。そして西暦662年には白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)が起こり、 倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争が起きました。当然、胸形の君(むなかたのきみ)・徳善一族も重要な活躍をしたはずです。 戦いは残念ながら倭国・百済遺民の連合軍が負けました。

 現在の宗像大社のもともとは、胸形の君(むなかたのきみ)一族の守り神だったようです。この胸形の君(むなかたのきみ)一族の古墳であろうと思われているのが、新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)です。 胸形の君(むなかたのきみ)・徳善は7世紀前半頃の人で、新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)は5世紀前半から6世紀にかけての古墳ですから、「徳善」より約100〜200年古い頃の古墳という事になります。
ちなみに胸形の君(むなかたのきみ)・徳善の古墳は「宮地嶽古墳」ではないかと言われています。
なお、新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)の調査された古墳からは、鉄の鎧(よろい)や、鉄を作る道具、刀、のみ、きり、斧、のこぎり、飾りがつけられた土器などの貴重な資料が出土しています。

 この新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)の他に、この地方には北の勝浦から、この奴山、生家(ゆくえ)、須多田、在自(あらじ)、宮司まで、 福津市の北部から南部まで連なるように、広い範囲に宗像一族の墓と思われる古墳があります。
これらの古墳は5世紀には福津市北部を中心に古墳造りが行われ、奈良・平安時代の郡司の時代には南部を中心に遺跡が出土します。年代とともに北部から南部に移動していますが、 宗像氏一族が営んだ連続した遺跡群と見ることができます。
胸形の君(むなかたのきみ)一族の古墳造りの最後は宮地嶽神社の奥の宮になっている「宮地嶽古墳」と「手光波切不動古墳」と言われています。 いずれも7世紀に造られた古墳であろうと推測されています。

 福岡県・宗像市・福津市が日本の世界遺産として登録を推進している「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の中に津屋崎古墳群(新原・奴山古墳群)も入っており、2017年の世界文化遺産候補としてユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

※ 掲載した内容は 2014年10月07日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画案内(約10分)

   
   


 ◆ 玄界灘を望む低い丘の上に59基の古墳群がある(5世紀から6世紀に造られたもの) ※ 超ビッグ写真はここ
玄界灘を望む低い丘の上に59基の古墳群がある(5世紀から6世紀に造られたもの)


◆ 【5世紀前半】 全長80mの最大で最古の22号古墳
【5世紀前半】 全長80mの22号古墳が一番古く一番大きい(埴輪がみつかっている)

 全長80mの最大で最古の22号古墳は前方後円墳ですが、現状は前方部分は削り取られ円墳のように見えます。この大きな古墳は5世紀前期に造られた最古の古墳で、 新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)の中心的な古墳です。
この22号古墳からは埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)が出土しています。

 7号古墳は唯一の方墳です。古墳時代には海を臨む小さな岬にあったものです。これは普通の古墳ではなく「まつり」を行う祭壇だったのではないか? と言われています。
この7号古墳からは鉄斧(てっぷ)や琥珀(こはく)原石などが出土しています。

 宗像君(むなかたのきみ)」一族は海人族(あまぞく)でした。信仰の中心は今の宗像大社(辺津宮)、墓場は宗像大社(辺津宮)から西にひと山越えた奴山(ぬやま)近辺、繁華街は今の宗像市田熊周辺、 これが古墳時代の姿だったようです。
なお、新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)は昔には海のすぐそばで、入江が入り組んだ陸地に出来ていたのです。だから古墳は海から参拝できたようです。 胸形の君(むなかたのきみ)一族は海人族(あまぞく)だけに海のそばに古墳を造り海から見える(又は、古墳から海が見える)ことが必須だったのかと思います。

 ◆ 海から近い
海から近い
 ◆ 地図 ※ ビッグ写真はここ
地図

 ◆ グーグルアース写真 ※ ビッグ写真はここ
グーグルアース写真

 ◆ 2017年の世界文化遺産候補としてユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました
津屋崎古墳群(新原・奴山古墳群)。2017年の世界文化遺産候補としてユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

 ◆ 中央の小山は40号古墳(円墳)
中央の小山は40号古墳(円墳)

 ◆ 30号古墳(前方後円墳)
30号古墳(前方後円墳)

 ◆ 横から見ると前方後円墳が良く分かる
横から見ると前方後円墳が良く分かる

 ◆ 小さな31号古墳もある
小さな31号古墳もある
 ◆ 32号古墳も小さい
32号古墳も小さい

 ◆ 25号古墳(円墳)
25号古墳(円墳)

 ◆ 昭和学園の方から見る古墳群(左の手前は40号) ※ この一列に並んだ10基ばかりの古墳は宗像君の家臣の古墳
昭和学園の方から見る古墳群(左の一番手前の小山は40号古墳) ※ この一列に並んだ10基ばかりの古墳は宗像君の家臣の古墳と考えられています

 ◆ 奴山(ぬやま)地区 後ろの山を越した所に宗像大社(辺津宮)があります
奴山(ぬやま)地区 後ろの山を越した所に宗像大社(辺津宮)があります

 ◆ 【5世紀前半】 最古で最大の22号古墳と24号古墳 (22号は前方後円墳だが、今は円墳の部分だけ残っている)
【5世紀前半】 最古で最大の22号古墳と24号古墳 (22号は前方後円墳だが、今は円墳の部分だけ残っている)

 ◆ 最古で最大の22号古墳の西側には縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居がある
最古で最大の22号古墳の西側には縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居がある

 ◆ 縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居
縫殿宮(ぬいどのぐう)の鳥居
 ◆ 鳥居は大正六年にできたようだ
鳥居は大正六年にできたようだ
 ◆ 鳥居の扁額(へんがく)
鳥居の扁額(へんがく)

 ◆ 石段が頂上まで続く
石段が頂上まで続く
 ◆ 角がなく丸いので遺跡の石のような気もする?
角がなく丸いので遺跡の石のような気もする?
 ◆ 頂上は平らになっている
頂上は平らになっている

 ◆ 奥に祠がある
奥に祠がある
 ◆ 祠の中には石がある
祠の中には「縫殿宮」と刻んだ石がある
 ◆ 「縫殿宮」と刻んだ石が祀ってある
「縫殿宮」と刻んだ石が祀ってある

 ◆ JAむなかた津屋崎カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)と20号古墳(円墳)
JAむなかた津屋崎カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)と20号古墳(円墳)

 ◆ 20号古墳(円墳)
20号古墳(円墳)

 ◆ 【5世紀前半】 24号古墳(前方後円墳) ※ ビッグ写真はここ
【5世紀前半】 24号古墳(前方後円墳)

 ◆ 【5世紀前半】 1号古墳(元は前方後円墳だが、今は円墳の部分だけ残っている)
【5世紀前半】 1号古墳(元は前方後円墳だが、今は円墳の部分だけ残っている)

 ◆ JAむなかた津屋崎カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)
JAむなかた津屋崎カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)

 ◆ 【5世紀後半】 12号古墳(前方後円墳)はカントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)のそばにある
【5世紀後半】 12号古墳(前方後円墳)はカントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)のそばにある

 ◆ カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)の南東の畑は古墳時代(3世紀中頃-7世紀頃)には海だった
カントリーエレベータ(穀物の乾燥施設)の南東の畑は古墳時代(3世紀中頃-7世紀頃)には海だった

 ◆ この道のある所も古墳時代には海だった。海に面した所に7号古墳(方墳)はある
この道のある所も古墳時代には海だった。海に面した所に7号古墳(方墳)はある

◆ 【5世紀前半】7号古墳は唯一の「方墳」で、普通の古墳ではなく「まつり」を行う祭壇だったのでは? とも言われている
【5世紀前半】7号古墳は唯一の「方墳」で、普通の古墳ではなく「まつり」を行う祭壇だったのでは? とも言われている





 
 

◆◆◆◆◆ 新原の百塔板碑(ひゃくとういたび) ◆◆◆◆◆

 5世紀前半につくられた新原・奴山21号古墳の上に14基の石塔が建っています。 この21号古墳は宗像君(むなかたのきみ)一族が、この近辺に古墳を造る前に地元の小豪族が造った古墳と考えられています。ということは新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)の中で一番古い古墳ということになりますが、 通常は隣の大きな古墳である22号古墳が一番古く一番大きな古墳と言われています。

 板碑(いたび)はここから約400m離れた渡(わたり)地区から切り出された玄武岩が用いられており14基ある中で8基に梵字(古代インド文字)と観音菩薩(かんのんぼさつ)、金剛界大日如来(こんごうかいだいにちにょらい)、 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、薬師如来(やくしにょらい) 等の仏像が細い線彫で描かれています。
「願はくは諸の衆生と共に安楽国に往生せんことを」、「勧進僧行円」、「文永十一年八月日改め立つ」の銘文があります。ちなみに文永11年は西暦1274年ですから板碑(いたび)は鎌倉時代(1185年頃-1333年)中頃に建てられたものです。

現地の案内板によると
 国内で三例しかない珍しい重体至極梵字(じゅうたいしごくぼんじ:いくつかの梵字を切り継いだもの)があるそうですが金網の外からは良く見えません。 また、これらの石塔は鎌倉幕府の五代目執権である北条時頼が諸国を見て回っている時に、平家一族の霊を弔うために建てたとも、また、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたともいわれているようです。

 蒙古襲来の1度目の文永の役(ぶんえいのえき)は1274年で、2度目の弘安の役(こうあんのえき)は1281年です。この板碑(いたび)は文永11年(1274年)8月の建立です。
もう少し詳しく書くと文永の役(ぶんえいのえき)は文永11年(1274年)の10月5日に対馬の小茂田浜を襲撃しています。松浦郡及び平戸島・鷹島・能古島の襲撃は10月16-17日で博多湾の襲撃は10月20日となっています。
いずれもこの板碑が建立された文永11年(1274年)8月より後の出来事なのです。
平家の話なら「壇ノ浦の戦い」でしょうから、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)の出来事ですから100年以上経っています。

 いづれも「文永十一年(1274年)八月」の銘文と時期が符合しません。それと「文永十一年八月日改め立つ」の「改め立つ」の言葉が気になります。 「改め立つ」ですから、周辺の野山に散在していた墓石や供養塔を見て、これでは亡くなった人達が浮かばれない(往生できない)。 そのように思った勧進僧行円が人々の協力を得て一カ所に集めて改めて供養したものと考えるのが自然だと思います。

※ 掲載した内容は 2014年10月07日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

 
 


 ◆ 新原の百塔板碑(5世紀前半に造られた新原・奴山21号古墳の上に14基の石塔が建っている)
新原の百塔板碑(5世紀前半に造られた新原・奴山21号古墳の上に14基の石塔が建っている)

 ◆ 新原の百塔板碑(石塔には梵字(古代インド文字)と観音菩薩や大日如来などを線彫したものもある)
新原の百塔板碑(石塔には梵字(古代インド文字)と観音菩薩や大日如来などを線彫したものもある)

 ◆ 新原の百塔板碑は文永十一年(1274)に建てられたと刻まれている石塔もあり鎌倉時代中頃に造られたようだ
新原の百塔板碑は文永十一年(1274)に建てられたと刻まれている石塔もあり鎌倉時代中頃に造られたようだ

 ◆ 平家一族の霊を弔うためとか、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたとかの説がある
平家一族の霊を弔うためとか、蒙古襲来の戦死者の供養に建てられたとかの説がある

 ◆ 現地案内板 ※ ビッグ写真はここ
現地案内板
 ◆ 梵字などの線彫
梵字などの線彫

 ◆ 宗像市史 通史編 第二巻(p571)に勝浦の大乗院にも似たような板碑が 3基あるとあったので、
  行ってみたが1基はあったが他は見つからなかった。見つかった1基の岩石の質は同じようだ


宗像市史 通史編 第二巻(p571)に勝浦の大乗院にも似たような板碑が3基あるとあったので、行ってみたが1基はあったが他は見つからなかった



■■■■■ 《 新原・奴山古墳群の見学会に参加 》 ■■■■■


◆ 新原・奴山古墳群見学会に参加 (2015/02/22 撮影)
新原・奴山古墳群の見学会に参加 (2015/02/22 撮影)
 ◆ あいにく小雨だった
あいにく小雨だった

 ◆ 薬師如来(やくしにょらい)かな
薬師如来(やくしにょらい)かな

 ◆ これは梵字(ぼんじ)かな?
これは梵字(ぼんじ)かな?
 ◆ 上は重体至極梵字(じゅうたいしごくぼんじ)下は観音菩薩
上は重体至極梵字(じゅうたいしごくぼんじ)下は観音菩薩



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 ◆ 今は海まで1kmくらいありそうだ
今は海まで1kmくらいありそうだ
 ◆ 駐車場はないので道端に停めた
駐車場はないので道端に停めた
 ◆ 動画案内(詳細版 約10分)
新原・奴山古墳群と新原の百塔板碑の動画案内


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