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■■■■■ 承福寺 (じょうふくじ) ■■■■■ ※ 場所はここ(中央”+”付近)

 
 

◆◆◆◆◆ 承福寺(じょうふくじ) ◆◆◆◆◆

 承福寺(じょうふくじ)は玄界灘を臨む湯川山の山麓に位置する臨済宗の寺院で正式には「安延山承福寺」といいます。応安六年(1373)に宗像社僧 高橋助法橋安延大徳が開創しました。 その後、文明2年(1470)宗像大宮司氏国の家臣であった占部越前守平安延(1398〜1479)が主家及び若くして亡くなった子 盛延・弘尚の追悼のために再興、占部安延の四男である月潭中円和尚(1434〜1494)を開祖となし、安延山と名づけました。
承福寺(じょうふくじ)の創建は応安六年(1373)とする説と文明2年(1470)とする2説があります。

 本尊は釈迦如来で文殊菩薩・普賢菩薩を脇侍仏として奉っています。境内にある観音堂には秘仏として伝えられた六臂(ろっぴ:六本の腕を持っていること)の如意輪観音像があります。

 臨済宗は室町幕府の庇護を受け、五山・十刹の官寺組織を整備し、さらに各地の禅寺を諸山に指定して宗勢を拡大していきました。承福寺も永禄十年(1567)に諸山に列せられています。
※ 五山・十刹・諸山 については別途 調査してください。

 宗像氏貞(1545〜1586)も承福寺(じょうふくじ)を重んじ、元亀二年(1571)に父 正氏の二十五忌の法要をいとなみ、自身も天正十四年(1586)に没すると、ここに葬られました。 天正十三年(1585)の分限帳では、鎮国寺、興聖寺に次ぐ十町歩の寺領が与えられています。ちなみに鎮国寺の寺領は十六町歩で興聖寺は十三町歩余りとなっています。

 宗像氏貞(1545〜1586)が42歳でこの世を去ると男子の後継(あとつ)ぎがいなかったので、これを理由に「秀吉」により名門「宗像大宮司家」は取り潰しとなりました。 宗像家の社領も没収され筑前国は小早川隆景に与えられました。後に小早川隆景により二百町歩復旧されたものの慶長二年(1597)に小早川隆景が亡くなると社領給付も無くなりました。

 名門「宗像大宮司家」は取り潰しとなった後に豊臣秀吉は文禄の役の褒賞として、小早川隆景の家臣である草苅重継に「宗像」の名称を与えました。そして宗像氏貞の娘が草苅重継に嫁いでいます。 社領給付も無くなったため氏貞の正室は娘婿の草苅重継の所に身を寄せました。
結局、宗像氏の直系は宗像には残らず、一族である深田氏の家系が祭祀を行って宗像社はなんとか存続しました。

 宗像大宮司家の庇護を受けて栄えた承福寺も氏貞の没後には荒廃していきました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦の功により、豊前国中津藩主の黒田長政に筑前一国が与えられました。その時に旧宗像郡は隠居した黒田官兵衛(如水)の隠居領になりました。 福岡藩の船手頭(ふなてがしら)を務めた松本家の文書(西日本新聞)に官兵衛の当時の隠居領が6万石だったと書いてあるそうだ。6万石とは相当な規模ですね。
 慶長10年(1605)の検地では宗像郡は48,288石 となっているので、6万石が本当なら 宗像郡+遠賀郡の一部+鞍手郡の一部が官兵衛の隠居領だったと思われます。

 黒田官兵衛(如水)が筑前に入国後、官兵衛(如水)の隠居領であった旧宗像郡内を視察に訪れたときに、承福寺(じょうふくじ)を指さして「あの寺は何か?」と言われたそうです。 「あの寺は先の国主(宗像家のこと)の菩提寺です」と、答えると 「それは貴いこと」と言われて、宗像家より拝領していた旧来の田畑及び山林を再び寄進しました。 その際の寄進状や、如水公肖像画が承福寺には残されています。

 黒田官兵衛(長政)は中津城にいるときに 城井谷(宇都宮鎮房)の反乱が起きました。これと同じ事が福岡黒田藩で起きるとしたら御家断絶になった宗像家の謀反だろうと思い宗像地方を官兵衛(如水)の隠居領としたのだと思います。
まだ、若い長政が治めるのは無理だと思い官兵衛(如水)が直接統治できる隠居領にし、宗像大社の近くの江口に館を構えて、宗像家の動向に目を光らせていたのでしょう。そして、承福寺に田畑を寄進するなどの懐柔策も駆使したのだと推測します。

●承福寺 (じょうふくじ)の観音堂には秘仏として伝えられた六臂(ろっぴ:六本の腕を持っていること)の如意輪観音像があり、近年の調査で建武の年号を含む墨書があることが明らかになりました。 墨書は不鮮明で分かり難い部分もありますが、建武年間(1334〜1338年)に開眼供養されたことは間違いないそうです。

 そうすると、仏像は承福寺の創建である応安六年(1373)より50年ばかり古いことになり、どこか他から持ってきたのだろうという事になります。
専門家がいろいろ調べて、鐘崎にある織幡神社の可能性が高いということになっています。
なぜなら、鎌倉時代から織幡神社の本地仏(ほんじぶつ)は如意輪観音とされ、正平二十三年(1368)の段階で境内に観音堂が存在した(「宗像宮年中行事」)。 また、鎌倉時代末頃に成立した『宗像大菩薩御縁起』にも本地仏は如意輪観音とされているそうです。

 これらの事を考えて承福寺の如意輪観音像は鐘崎にある織幡神社にあった仏像をいつの時代かに承福寺に移した。そのように推測されているのです。

※ 掲載した内容は 2014年10月24日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画案内(約5分)

 
 


 ◆ 湯川山の山麓の眺望の良い高台にある承福寺 (じょうふくじ)
湯川山の山麓の眺望の良い高台にある承福寺 (じょうふくじ)


 ◆ 安延山承福寺は臨済宗大徳寺派一等地の寺
安延山承福寺は臨済宗大徳寺派一等地の寺

 撮影に行った時、如意輪観音像は「九州仏展」に出展のためにありませんでしたが、写真で見る限りでは、金箔がほどこされた、非常にきれいな仏像です。 仏像の写真は承福寺の公式サイトでご覧ください。

※ 参考資料…九州仏(編集 福岡市博物館)

動画案内(約5分)


 ◆ 承福寺文書 ※ ビッグ写真はここ
承福寺文書
 ◆ 黒田如水公書付というのもある ※ ビッグ写真はここ
黒田如水公書付というのもあるようだ

 ◆ 承福寺の本堂 (承福寺は応安六年(1373)に開創され、文明2年(1470)に宗像家家老占部越前守安延が再興した)
承福寺の本堂 (承福寺は応安六年(1373)に開創され、文明2年(1470)に宗像家家老占部越前守安延が再興した)

 ◆ 黒田官兵衛(如水)の寄進状や、如水公肖像画が残されています
黒田官兵衛(如水)の寄進状や、如水公肖像画が残されています

 ◆ 釈迦如来を本尊として、文殊菩薩・普賢菩薩を脇侍仏として奉っている
釈迦如来を本尊として、文殊菩薩・普賢菩薩を脇侍仏として奉っている

 ◆ 本堂の中にある山号額
本堂の中にある山号額
 ◆ 本堂の中にある鐘
本堂の中にある鐘

 ◆ 本堂前のキンモクセイの木
本堂前のキンモクセイの木
 ◆ 住職さんの住居 庫裏(くり)
住職さんの住居 庫裏(くり)

 ◆ 観音堂(筑前西国二十番札所)
観音堂(筑前西国二十番札所)

 ◆ 観音堂の中(如意輪観音像は出張中だった)
観音堂の中(如意輪観音像は出張中だった)
 ◆ 観音堂の天井の絵がすごい!
観音堂の天井の絵がすごい!

 ◆ 観音像は九州仏展に展示中 ※ ビッグ写真はここ
如意輪観音像は九州仏展に展示中
 ◆ 観音堂前の石仏
観音堂前の石仏

 ◆ 鐘楼もある
鐘楼もある
 ◆ 鐘楼
鐘楼
 ◆ 文化財になっていないので新しいのかな?
文化財になっていないので新しいのかな?

 ◆ 承福寺の駐車場から玄海灘を望む (右の後方は筑前大島。左は神湊と無人島の勝島) ※ ビッグ写真はここ
承福寺の駐車場から玄海灘を望む (右の後方は筑前大島。左は神湊と無人島の勝島)

 ◆ 駐車場脇の柿の木
駐車場脇の柿の木
 ◆ 甘ガキかな?
甘ガキかな?
 ◆ 動画案内(詳細版 約5分)
承福寺の動画案内





 


■■■■■ 宗像氏貞の墓 ■■■■■ ※ 場所はここ(中央”+”付近)


 
 

◆◆◆◆◆ 宗像氏貞の墓地及び石塔 ◆◆◆◆◆

● 現地の案内板
 第80代宗像大宮司 宗像氏貞は戦国乱世の時宗像一円をはじめ社領をよく統括宗像氏最後の英傑です。
1578(天正6)年には消失していた宗像大社本殿を再建しています。 しかし、1586(天正14)年に宗像大社境内復興の半ばで病に倒れ、鳶ヶ嶽城にて42才の生涯を終えています。 法名は「即心院殿一以鼎恕大居士」と号し、門前乙尾の丘陵上に埋葬されたと伝えられています。
======== 引用おわり =========

 宗像氏貞はどういう人だったのか? 
宗像氏貞(1545〜1586年)は第80代宗像大宮司で、宗像正氏(黒川隆尚)の庶子(婚外子)として生まれ、母は陶晴賢(すえ・はるかた )の姪であり、陶晴賢(すえ・はるかた )の支持を得て宗像大宮司となりました。
宗像氏貞が大宮司になる際に、「山田事件(菊姫伝説)」と呼ばれる凄惨な後継者争いが発生しています。

陶晴賢(すえ・はるかた )が毛利元就の知略により厳島の戦いで敗死すると、大内氏の北九州の所領を引きついだ大友宗麟に仕えました。
しかし、毛利元就が北九州に攻めてくると大友宗麟を裏切り毛利方に付き、立花城にいた大友方の戸次鑑連(立花道雪)とたびたび戦いを行いました。 毛利が支援していた時は宗像氏が有利でしたが、大友宗麟の陰謀で毛利が北部九州から手を引くと、宗像氏は大友方に押されるようになりました。
結局、大友宗麟に降伏する事となり、大友家重臣・臼杵鑑速の娘を大友宗麟の養女として直ぐに宗像氏貞の妻としました。氏貞の妹の「色姫」も戸次鑑連(立花道雪)に嫁がせました。

 大友方(戸次鑑連)が言う和睦の条件がもう一つありました。それは宗像方に付いて宗像氏を守るために盾となり西郷党を率いて活躍した「河津民部隆家」の首を差し出せ。というこでした。
隆家を殺すことは氏貞にとっても断腸の思いでしたが、元亀元年(1570)1月15日、隆家を赤間の陵厳寺にある「妙湛寺」に河津民部隆家を招き家臣によって謀殺したのです。そしてその首を差し出したのです。
そして一族諸家の「西郷党」も西郷の地を追われて鞍手郡若宮郷に移住させられ、西郷の地は色姫が輿入れする際の化粧料として大友方(戸次鑑連)に与えられました。

 これで戦いはなくなり平穏な日がくるはずでしたが、平穏な日も約10年間で終わりでした。
鞍手郡若宮郷に移住した「西郷党」の人達は大友方(立花城・戸次道雪)に対する憎しみが消えることはありませんでした。
1581(天正9)年、大友方の鷹取城(直方市永満寺)に大友方(立花城・戸次道雪)が食料を支援することになり宗像方の領地を通ることを事前に通知し、氏貞(うじさだ)の許可も得ていました。
しかし、支援して帰る大友方(立花城・戸次道雪)の人達を、道の途中に住んでいた「西郷党」の人達が積年の恨みを晴らすと言って襲ったのです。 これに日頃から大友方(立花城・戸次道雪)と敵対していた秋月方も宗像方の味方をして300余人が救援に駆けつけました。救援もいれて宗像方は約800人余人。 大友方(立花城・戸次道雪)は約600人余人で数で押されていました。

 これを聞いた宗像氏貞は驚き、家老の吉田、石松の両名を使者に出して戦いをやめさせようとしましたが、使者達も「西郷党」に同情して戦う事になり収集がつかなくなりました。
結局、最初は押されていた大友方(立花城・戸次道雪)も犬鳴山を背にした地の利を生かして、上からどっと駆け下り宗像方を追い落としました。宗像方は総崩れとなり家老の吉田、石松も討取られその部下も大半が戦死、 西郷党の若宮の郷士たちもほとんど討取られたのです。立花方も三十余人の勇士を失ったが意気揚々と小金原を引き揚げていきました。この戦いを「小金原の戦い」といいます。

 この戦いの話を聞いた大友方(立花城・戸次道雪)は事前に通ることを知らせ許可を得ていたのに何事か! と激怒しました。家臣の小野和泉らが「宗像氏貞は知らないことで若宮領に西郷から移された郷士たちの軽はずみな行動で・・・・」と 戸次道雪に慎重な行動をと、諌言(かんげん)しましたが、完全に切れた道雪は聞く耳を持ちませんでした。宗像が盟約を破ったのだ!悪いのは向うだ!と叫び、再び宗像へ出陣を命じました。
以後、立花・宗像家の和睦は破られ敵対関係になり宗像氏貞、戸次道雪(立花道雪)のお互いが亡くなるまで戦いは続きました。
なお、戸次鑑連(立花道雪)に嫁いだ色姫は天正12年(1584年)3月24日に39歳で没しました。この日は丁度、山田事件の命日なので自殺したという説もありますが、定かではありません。

 戸次道雪(立花道雪)は天正13年(1585年)9月11日に病死しました(享年73歳)。宗像氏貞は天正14年(1586年)3月4日に病死しました(享年42歳)。二人の死亡は半年程度の違いでした。
二人の死亡後も小競り合いはありましたが、天正14年(1586年)7月から同 15年(1587年)4月にかけて秀吉が九州平定を行い“撃ち方やめ”の号令が出て、ようやく戦いは無くなりました。

 宗像氏貞(1545〜1586)が42歳でこの世を去ると男子の後継(あとつ)ぎがいなかったので、これを理由に「秀吉」により名門「宗像大宮司家」は取り潰しとなり断絶しました。

 氏貞の墓は 承福寺に行く途中の、手前約400mの右側の林の中にあります。屋根のある墓が氏貞の墓で、近くで見るとボロボロに風化しています。字もみえません。 真ん中に白い筋がありますが、コンクリートで割れを埋めたようです。
そもそも、この墓が石でできているのだろうか? 疑問です。近づいて良く見ると、泥の中に小石がある感じです。泥を凝固剤で固めたように見えます。 石のような部分もありますから、ほとんど崩壊してバラバラになった墓を一部コンクリートで接着し、欠損した部分は泥で固めたような感じです。(推測です)

 境内には石塔の跡と思われる石が散乱していますが、石塔はありません。 承福寺を開基した宗像家家老占部越前守安延の墓と宗像家臣 占部八郎貞保塔という墓もある(占部貞保は氏貞亡き後に宗像一族を統率した宗像家臣)
それと「第80代宗像大宮司 宗像氏貞について」と表示した顕彰碑が建っています。これは石が新しいので最近造ったようです。
宗像氏貞は第79代宗像大宮司とするサイトも散見しますが第80代のようです。


※ 掲載した内容は 2014年10月24日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画案内(約3分)

 
 


 ◆ 宗像氏貞の墓はこの林の中にある
宗像氏貞の墓はこの林の中にある

 ◆ 墓所は野積の石段の上にある
墓所は野積の石段の上にある

 ◆ 屋根のある墓が宗像氏貞の墓(即心院殿一以鼎恕大居士)
屋根のある墓が宗像氏貞の墓(即心院殿一以鼎恕大居士)

 ◆ 宗像氏貞は天正14年(1586年)3月4日に病気で急死した(享年42歳)
宗像氏貞は天正14年(1586年)3月4日に病気で急死した(享年42歳)

 ◆ 墓標は風化している
墓標は風化している
 ◆ 風化して字は読めない
風化して字は読めない
◆ 石と言うより泥の塊のようだ(小石が多数入っている)
石と言うより泥の塊のようだ(小石が多数入っている)

 ◆ 文明十年(1478)に81歳で没した承福寺を開基した宗像家家老占部越前守安延の墓(承福寺殿慶岩宗快居士)
文明十年(1478)に81歳で没した承福寺を開基した宗像家家老占部越前守安延の墓(承福寺殿慶岩宗快居士)

 ◆ 宗像家臣 占部八郎貞保塔 という墓もある(占部貞保は氏貞亡き後に宗像一族を統率した宗像家臣)
宗像家臣 占部八郎貞保塔 という墓もある(占部貞保は氏貞亡き後に宗像一族を統率した宗像家臣)

 ◆ 墓所からは湯川山が見える
墓所からは湯川山が見える
 ◆ 菩提寺の承福寺まで400mある
菩提寺の承福寺から400m離れている
 ◆ 動画案内(詳細版 約3分)
宗像氏貞の墓 動画案内







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  ■宗像市商工会   0940-36-2268
  ■玄海商工会    0940-62ー0070
  ■大島村商工会   0940-72-2747
  *アクセス
  ■玄海交通バス「鐘崎線門前」バス停から山手へ1キロ程度のところです。

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