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◆◆◆◆◆ 旦ノ原(だんのはる)井戸・飯盛山(いいもりやま) ◆◆◆◆◆

●旦ノ原(だんのはる)井戸
 古賀市薦野小字旦ノ原(だんのはる)の旧唐津街道沿いに古びた井戸があります。これを旦ノ原(だんのはる)の殿様井戸とか旦ノ原(だんのはる)の井戸と言います。
この井戸の前の道は唐津街道で、江戸時代には参勤交代の行列も通った道です。往時は唐津街道の峠の茶屋として、駄菓子屋や小間物屋などもあり、旅人や駕籠屋人足、駄馬の一息入れる往来の休憩場所であったそうです。

現地の案内板の文 引用 

旦ノ原は旧糟屋・宗像二郡の境で、莚内・薦野(糟屋郡)・内殿・上西郷(宗像郡)の四村にまたがる丘陵一帯のことをいいます。  江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため水がなくて困りました。
この実情を当地に住んでいた伊東忠平が、大庄屋の石松林平に訴えて、井戸を掘ることをお願いしたところ許され、 伊東忠平の屋敷に文久二年(一八六二年)の秋に井戸を掘り始め、翌三年の秋にできあがりました。
以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸のことを「二郡四ヶ村井戸ひとつ」と呼ばれるようになりました。

 この井戸は昭和六一年に県道拡幅工事で、道路敷になったため、荒牧晋一氏の御協力を得て移転しましたが、 その後、平成二十一年には再度の県道拡幅工事により現在地に再移転しました。
再移転にあたって荒牧裕貴、荒牧照貴両氏に御協力をいただきました。
この井戸が唐津街道の当時の様子を伝える歴史的資料として、永く愛され活用されることを願ってやみません。
平成21年3月 古賀市教育委員会

現地の案内板の文 引用 おわり 

ちなみここの集落は二郡四村と行政区域は異なっていたが、農家をまじえた住民の連帯意識は一村同様の共同体であったそうだ。戦前(1945年前)まで24〜25戸の集落だったようです。

※ 掲載した内容は 2014年 4月 1日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画案内(約9分)

 
 



   ■■■■■ 旦ノ原の井戸 ■■■■■ 


 ◆ 県道(内殿ー莚内線)旧唐津街道沿いある「旦ノ原井戸」 奥の小山は飯盛山(標高157m)   ※カーソルON!
県道(内殿ー莚内線)旧唐津街道沿いにある「旦ノ原井戸」 奥の小山は飯盛山(標高157m)


 ◆ 旦ノ原の四辻から40〜50m古賀市側に寄った所にある
旦ノ原の四辻から40〜50mほど古賀市側に寄った所にある

 旦ノ原(だんのはる)井戸は文久三年(1863年)に竣工したと上で説明しましたが、それまでは水をどうしていたのか気になります。
そのことは「井土(戸)開鑿記念碑建設主意書」にこのように書いてあるそうだ。
旅客ノ通行、貨物ノ運輸、絡駅相踵ギ、此ノ地二休息スルノ士、駄馬二水飼フノ夫絶ヘズ。然り卜雖トモ東西何レヨリスルモ、地素丘上二在り、加之ナラズ一小ノ寒村、 井土(戸)開鑿の資財二乏シク、日常僅二坂路ヲ昇降シテ丘澗ノ井水ヲ使用シタリシヲ以テ、居民ノ困難、旅客ノ不便実ニ言語二絶ズ。・・・・

 昔の文は難しいですね。たぶん、概略このように書いてあるのだと思います。「休憩して馬に水を与える人も絶えず、しかし、その水は坂道を上ったり下りたりして運んだもので住民の苦労は言語に絶す・・・・・」

 谷の方から坂道を上ったり下りたりして水を運んだようです。水はけっこう重いから大変な作業だったと想像できます。
この井戸ができて住民もずいぶん楽になったと思います。ちなみに井戸は石積みで、深さ21m強、直径約1m、水深約3.3mでした。

※ 参考文献 福間町ふるさと文化財探訪記(平成3年 福間町教育委員会出版)

動画案内(約9分)

 ◆ 昔から「二郡四村に井戸一つ」といわれていたそうだ
昔から「二郡四村に井戸一つ」といわれていたそうだ
 ◆ 井戸を掘ることを請願した伊東忠平さんの碑
井戸を掘ることを請願した伊東忠平さんの碑
 ◆ 昔ながらの四角い井戸(井戸の部分は丸い)
昔ながらの四角い井戸(井戸の部分は丸い)

 ◆ 道路拡張のために2度移転したようだが忠実に再現しているようだ
道路拡張のために2度移転したようだが忠実に再現しているようだ


 
 

◆◆◆◆◆ 旦ノ原(だんのはる)の地名について ◆◆◆◆◆

 この近辺の旦ノ原(だんのはる)という地名は『筑前国続風土記』巻之十九 にこう書いてあるそうだ。
 「団の原」 席内の東にありて、其境内也。横十五町程、縦二十四、五町程ある広原なり。東は宗像郡西郷との境也。
むかし此所に団右近将監宗時と云地士居住し、宗像郡の内、東郷、西郷、其外近郷を領しけるか、薦野(こもの)村に居たりし丹治式部少輔峰延、同修理亮峰時としばしば合戦す。宗時終に打負て丹治(薦野氏)に降る。 団氏が居たりし故、其所を団(現在は旦)の原と云。(以下略)

昔に団右近将監宗時(だん うこんしょうげんむねとき)という人の所領だったから「団の原」と言っていたのが、いつのころからか「旦の原」と字が変わったようですね。
ちなみにこの団氏は丹治(薦野氏)に敗れたようですが、子孫は生き延びて黒田長政が筑前の国の領主として入国して間もなく、家臣に取立てられたそうだ。
それから十二代の裔孫(えいそん:遠い子孫)団琢磨は、明治初年岩倉具視大使一行に従ってアメリカに留学し、ボストン大学を明治十一(一八七八)年に卒業、 大正三(一九一四)年には三井合名会社理事長となり財界で活躍した。その孫 団伊久磨は音楽家として有名です。

※ 参考文献 福間町ふるさと文化財探訪記(平成3年 福間町教育委員会出版)

 
 



   ■■■■■ 旦ノ原の愛宕神社 ■■■■■ 


 ◆ 旧唐津街道沿いにある愛宕神社(あたごじんじゃ) ※上の旦の原井戸は古賀市だが、愛宕神社は福津市になる
旦ノ原の旧唐津街道沿いにある愛宕神社(あたごじんじゃ) ※上の旦の原井戸は古賀市だが、愛宕神社は福津市になる

 ◆ 春には桜がきれい!
春には桜がきれい!

 ◆ 天文二十二年(1553)年九月に創建された
天文二十二年(1553)年九月に創建された

 県道(内殿ー莚内線)旧唐津街道沿いの小高い丘の上にあります。上の旦ノ原(だんのはる)は旦ノ原の四辻から40〜50mほど古賀市側に寄った所にありますが、 愛宕神社は反対に福津市側に40〜50mほど寄った所にあります。

 この神社は昔は太郎坊・愛宕大権現と号し、天文22年(1553)9月に宗像家臣・小田(旧姓吉田)善左衛門尉氏勝が創建しました。
江戸時代中期の元禄15年(1702)その子孫 久兵衛、一子が真言の修験者となり、以来代々小田(現・織田)氏によって祭祀されている(愛宕神社・略縁起)

 神社の隣にある民家が祭祀を行っていた織田氏であるが、今は大森宮の伊東宮司が代わりに祭祀を執り行っているようです。

 2014/4/1 に訪れましたが、桜が満開でとてもきれいでした。境内もきちんと清掃されており、すがすがしかったですね。 こういう神社の維持管理も大変だと思いますが、歴史ある神社をいつまでも守っていただきたいと思います。

 ◆ 鳥居の扁額
鳥居の扁額
 ◆ 手水鉢
手水鉢

 ◆ 愛宕神社の社殿
愛宕神社の社殿
 ◆ 覗くと絵馬が見える
覗くと絵馬が見える

 ◆ 右奥に境内社がある
右奥に境内社がある

 ◆ 境内社
境内社

 ◆ 境内社はいずれも石が祀ってある
境内社はいずれも石が祀ってある
 ◆ 日露戦争の時の「征露紀念」という石碑もある
「征露紀念」という石碑もある。日露戦争の勝利を記念して建立したようだ
◆ よく見ると「地主大神」「三重稲荷神社」と彫ってある
よく見ると「地主大神」「三重稲荷神社」と彫ってある





   ■■■■■ 飯盛山(いいもりやま) ■■■■■ 


 
 

◆◆◆◆◆ 飯盛山(いいもりやま) ◆◆◆◆◆

 飯盛山(いいもりやま)は福津市と古賀市の境に近い福津市側の内殿(うちどの)にあります。他の山と接続しない独立した山で標高は157mです。 小さな小さな富士山のようにご飯を盛ったような山なので「飯盛山」という名前になったのかな?

現地の案内板の文 引用 

飯盛山ひとくち歴史
古賀市との境にある標高157メートルの山です。登山口から頂上まで約10分で登ることができ、ちよっとした八イキングコースとして楽しめます。
舂には山頂の桜が咲き乱れ、花見の名所として多くの人でにぎわいます。 戦国時代には城が築かれていた史跡でもありますが、今では合戦の舞台となった面影はなく、 眼下に福間町全域が見渡せ、空気の澄んだ晴れた日などは 博多湾や福岡夕ワーが見えることもあります。

現地の案内板の文 引用 おわり 

 この飯盛山には戦国時代に城がありました。城と言っても天守閣のあるりっぱな城ではなく、山賊の本拠地のような砦(とりで)程度だと思います。
その城は誰が造ったのかと言えば、乾元元年(1302)に河津重房が初めて城を築したといわれています。
河津重房は伊豆国の河津三郎祐泰の流れを組む豪族で乾元元年(1302)幕府から筑前国宗像郡(福岡県福津市)西郷庄の地頭に任命され下向し、西郷庄の亀山城に居住していました。 『河津伝記』によると許斐、飯盛両城は元来、河津氏の持城であった、としているので、亀山城も入れて3つの城を持っていたことになりますね。
なお、この河津氏を中心にした一派を「西郷党」と言ったそうです。 !(^^)! 西郷党! 強そうな良い名前ですね!

 戦国時代には、この郡境の粕屋側は大友氏(立花城・戸次道雪)が支配し、宗像側は宗像大宮司家(宗像神社)の支配下となっていました。宗像氏は 周防(山口県)の大内氏の庇護を受けていました。大内氏が滅びると毛利氏に属していました。 大内氏は、西郷(現在の津丸、久末、上西郷、福間、手光)の地に対して代官職、つまり直接の宰領者として河津氏を置き、 大友氏の勢力下にあった立花氏と相対していました。河津氏は大友氏にも宗像氏にも属していませんでした。

 宗像・粕屋両勢力の接点である旦ノ原(だんおはる)は、戦国期における両軍の度重なる合戦場となり、河津氏は大友氏からも宗像氏からも攻撃されることになったので、 河津氏は同じ大内の仲間である宗像氏と同盟関係を結び共同で大友氏(立花城・戸次道雪)に相対することにしました。
やがて大内氏が滅びると河津氏は宗像氏貞の旗下となり飯盛山は粕屋勢力の大友氏(立花城・戸次道雪)の侵攻に対し大手を広げて立ち塞がっていたのです。
毛利氏の支援があった時には宗像氏と河津氏が有利な戦況でしたが、大友氏の策略で毛利氏が退くと一挙に大友氏(立花城・戸次道雪)が有利になり、 宗像氏と河津氏は苦戦となりました。

 結局、宗像氏貞は大友氏(立花城・戸次道雪)と和睦を結ぶことになりました。大友氏(立花城・戸次道雪)の言う和睦の条件の中の一つが 「河津民部隆家」の首の要求でした。宗像氏を守るために盾となり活躍した隆家を殺すことは氏貞にとって断腸の思いでしたが、 元亀元年(1570)1月15日、隆家を赤間の陵厳寺にある「妙湛寺」に招き家臣によって謀殺したのです。
そして一族諸家の「西郷党」は、西郷の地を追われて鞍手郡若宮郷に移住させられることとなったのです。

 鞍手郡若宮郷に移住した「西郷党」の人達は大友氏(立花城・戸次道雪)に対する憎しみが消えることはありませんでした。積年の恨みが爆発したのが 天正9年(1581)11月13日に起きた小金原の戦いです。

 「小金原の戦い」は1581(天正9)年、大友方の鷹取城(直方市永満寺)に大友方(立花城・戸次道雪)が食料を支援することになり宗像方の領地を通ることを事前に通知し、氏貞(うじさだ)の許可も得ていました。
しかし、支援して帰る大友方(立花城・戸次道雪)の人達を、道の途中に住んでいた「西郷党」の人達が積年の恨みを晴らすと言って襲ったのです。 これに日頃から大友方(立花城・戸次道雪)と敵対していた秋月方も宗像方の味方をして300余人が救援に駆けつけました。救援もいれて宗像方は約800人余人。 大友方(立花城・戸次道雪)は約600人余人で数で押されていました。

 これを聞いた宗像氏貞は驚き、家老の吉田、石松の両名を使者に出して戦いをやめさせようとしましたが、使者達も「西郷党」に同情して戦う事になり収集がつかなくなりました。
結局、最初は押されていた大友方(立花城・戸次道雪)も犬鳴山を背にした地の利を生かして、上からどっと駆け下り宗像方を追い落としました。宗像方は総崩れとなり家老の吉田、石松も討取られその部下も大半が戦死、 西郷党の若宮の郷士たちもほとんど討取られたのです。立花方も三十余人の勇士を失ったが意気揚々と小金原を引き揚げていきました。この戦いを「小金原の戦い」といいます。

 この戦いの話を聞いた大友方(立花城・戸次道雪)は事前に通ることを知らせ許可を得ていたのに何事か! と激怒しました。家臣の小野和泉らが「宗像氏貞は知らないことで若宮領に西郷から移された郷士たちの軽はずみな行動で・・・・」と 戸次道雪に慎重な行動をと、諌言(かんげん)しましたが、完全に切れた道雪は聞く耳を持ちませんでした。宗像が盟約を破ったのだ!悪いのは向うだ!と叫び、再び宗像へ出陣を命じました。
以後、立花・宗像家の和睦は破られ敵対関係になり宗像氏貞、戸次道雪(立花道雪)のお互いが亡くなるまで戦いは続きました。
なお、戸次鑑連(立花道雪)に嫁いだ色姫は天正12年(1584年)3月24日に39歳で没しました。この日は丁度、山田事件の命日なので自殺したという説もありますが、定かではありません。

 戸次道雪(立花道雪)は天正13年(1585年)9月11日に病死しました(享年73歳)。宗像氏貞は天正14年(1586年)3月4日に病死しました(享年42歳)。二人の死亡は半年程度の違いでした。
二人の死亡後も小競り合いはありましたが、天正14年(1586年)7月から同 15年(1587年)4月にかけて秀吉が九州平定を行い“撃ち方やめ”の号令が出て、ようやく戦いは無くなりました。

 黒田が筑前の領主になったのは西暦 1600年ですから、その約20年前の話です。


 
 


 ◆ 戦国時代には城が築かれていた飯盛山(157m)
戦国時代には城が築かれていた飯盛山(157m)

 ◆ 約10分で登れる
約10分で登れる
 ◆ カラフルな「小さな森のギャラリー」というのがある
カラフルな「小さな森のギャラリー」というのがある

 ◆ トイレも整備されている
トイレも整備されている
 ◆ 鎖の手すりもあり安全だ
鎖の手すりもあり安全だ
 ◆ 段々道
段々道

 ◆ 桜がきれい!
桜がきれい!
 ◆ 古賀市のごみ焼却施設「エコロの森 古賀清掃工場」
古賀市のごみ焼却施設「エコロの森 古賀清掃工場」
 ◆ 最後の急坂だ!
最後の急坂だ!

 ◆ 山頂が見えてきた
山頂が見えてきた
 ◆ 山頂より一段低い所に展望台がある
山頂より一段低い所に展望台がある

 ◆ 展望所から西方向が良く見える
展望所から西方向が良く見える
 ◆ 古賀市花見や千鳥辺りと相ノ島が見える
古賀市花見や千鳥辺りと相ノ島が見える

 ◆ 今日は天気が良いので相ノ島もよく見える
今日は天気が良いので相ノ島もよく見える

 ◆ オレンジ色の横線の建物はグッデイ古賀千鳥店、後方の島は相ノ島
オレンジ色の横線の建物はグッデイ古賀千鳥店、後方の島は相ノ島

 ◆ 山頂付近には桜が多い
山頂付近には桜が多い
 ◆ この坂を上った所が山頂(157m)
この坂を上った所が山頂(157m)
 ◆ 山頂の広場
山頂の広場

 ◆ 乾元元年(1302)に河津重房が初めて飯盛山に城を築城した
乾元元年(1302)に河津重房が初めて飯盛山に城を築城した

 ◆ 桜がきれいだ!
桜がきれいだ!

 ◆ 桜の間から内殿の西郷小学校方面が見える
桜の間から内殿の西郷小学校方面が見える

 ◆ もう少し望遠で西郷小学校方面をアップで見る
もう少し望遠で西郷小学校方面をアップで見る

 ◆ 赤い屋根は光陵高校
赤い屋根は光陵高校

 ◆ 中央の茶色い建物が福津市役所
中央の茶色い建物が福津市役所

 ◆ 許斐山も見える (ここの飯盛山の城は許斐山の出城だったそうだ)
許斐山も見える (ここの飯盛山の城は許斐山の出城だったそうだ)


 ◆ 方位盤もある
方位盤もある
 ◆ 登山者用の駐車場もある
登山者用の駐車場もある
 ◆ 動画案内(詳細版 約8分)
旦ノ原井戸・飯盛山の動画案内



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