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太閤水と殿ん屋敷(福津市八並)

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福岡県福津市八並
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■■■■■ 太閤水(福津市八並) ■■■■■ ====================================================*


 
 

◆◆◆◆◆ 太閤水(福津市八並) ◆◆◆◆◆ 場所はここ (中心の”+”辺り)

 福津市八並の旧唐津街道(現在の県道503号線)沿いに「太閤水」はあります。豊臣秀吉が天正15(1587)に、ここの水を飲んだことで、そういう名前になっています。
井戸の外は一部石を使っていますが、中はコンクリート製です。それもけっこう新しいので、最近 造り直したと思われます。
下に現地の案内板を記しておきますが、これを読むと「土地の老人の案内で清く冷たい湧き水を得て・・・・」とありますから、 当時は井戸でなく湧き水だったんですね。周辺には民家が4〜5軒あります。昔からある農家のようですから「「土地の老人の案内で・・・」に出てくる「老人」の子孫もこの中にあるかもしれませんね。

================現地の案内板の文 引用 =================
 天正15(1587)年3月、豊臣秀吉は島津制圧のため軍勢と共に小倉に入城、25万の軍を二手に分け、自らは筑前から肥後路へ南下した。
黒崎、赤間を過ぎ、山の口峠(八並)を越えた所で秀吉は大休止を命じ水を求めた。千利休が土地の老人の案内で清く冷たい湧き水を得て、 この水で、喉をうるおした秀吉は、大変おいしかったとみえ、千利休に、「この水の味、京に戻っても決して忘れるな」と言ったといわれている。
秀吉は5月には九州平定を完了し、箱崎宮に本陣を置き約1ヶ月滞在。この間に国割、町割、禁教令等の施行、茶会、連歌会を催したりして、 7月に箱崎を出立(しゅったつ)して、帰路についた。
折からの炎暑の中、再び山の口峠にさしかかる前に馬を休め、この水で喉をうるおし、大変喜んだと伝えられている。
以来この清水を「太閤水」と呼ぶようになったという。藩政時代は人馬の往来が多く、旅人たちはこの水で喉をうるおし、峠を越えたのであろう。 太閤水は他にも北九州市若松区、宗像市、粕屋郡新宮町、福岡市西区、二丈町、鎮西町(唐津市の近くの町。名護屋城がある)にも残っている。
================現地の案内板の文 引用 おわり ==============


※ 掲載した内容は 2014年10月28日時点の内容です。変更になるおそれがあります。自己責任で御利用ください。

動画・太閤水(約3分)

動画・山ノ口の殿ん屋敷(約5分)

動画・小田裏の殿ん屋敷(約2分)


 
 


 ◆ 赤間宿方面から来た場合、山の口峠を越えた所の福津市八並にある『太閤水』
赤間宿方面から来た場合、山の口峠を越えた所の福津市八並にある『太閤水』

 ◆ 豊臣秀吉は天正15(1587)年3月島津制圧のため自から筑前から肥後路へ南下した時にここで水を飲んだ
豊臣秀吉は天正15(1587)年3月島津制圧のため自から筑前から肥後路へ南下した時にここで水を飲んだ

 ◆ 島津制圧を終えて天正15(1587)年7月、大阪に帰る時にも、ここの水が気に入ったのか再度、ここで水を飲んだ
島津制圧を終えて天正15(1587)年7月、大阪に帰る時にも、ここの水が気に入ったのか再度、ここで水を飲んだ

 ◆ 井戸はコンクリート製なので新しいようだ
井戸はコンクリート製なので新しいようだ
 ◆ この山の口峠を越えると宗像市大穂、原町に続く
この山の口峠を越えると宗像市大穂、原町に続く

◆ 若松区小敷の太閤水※ビッグ写真
若松区小敷の太閤水(若松の太閤水)
◆ 新宮町三代の太閤水※ビッグ写真
新宮町三代の太閤水
 ◆ 動画案内(詳細版 約3分)
福津市八並の太閤水 動画案内





■■■■■ 殿ん屋敷(福津市八並) ■■■■■ ==================================================*


 
 

◆◆◆◆◆  殿ん屋敷(福津市八並) ◆◆◆◆◆ 場所はここ (中心の”+”辺り)

 太閤水のある山ノ口地区に『殿ん屋敷』と言われる場所があります。『殿屋敷』でなくて『殿ん屋敷』と言っているようです。そこは黒田家臣を代表する「黒田24騎」にも選ばれている初代 吉田六郎太夫長利(壱岐守)の孫の吉田知年(ちかとし)が寛文8年(1668)に建てた館があった場所です。
館と言っても吉田知年(ちかとし)は黒田藩の重臣ですから、ここで暮らすわけにはいきません。用事があり、この近辺に来た時に、この館で過ごしました。今でいう別荘のようなもので、巴屋敷(ともえやしき)とも言われていたそうです。

 吉田知年(ちかとし)の知行地は宗像郡(曲村・有自村・田野村・野坂村、八並村、土穴村内、徳重村、久原村内、元木村)、鞍手(新延村・稲光村)、嘉穂郡(建花寺村・伊川村)でした。合計5,000石ありました。 禄高5,000石は黒田藩主の親族を除いて藩の中でもトップクラスだと思います。

 その吉田知年(ちかとし)がなぜ、この山ノ口に館を建てたか? それは自分の知行地の中で一番津屋崎に近い場所だったからです。その当時 吉田知年(ちかとし)は津屋崎の干拓や塩田開発を責任者として熱心に行っていました。 寛文6年(1666)には宗像郡内の15歳以上60歳までの成人を総動員して約650mの「寛文の石堤」を完成させています。その後も塩田の開発など行なっていますから、頻繁に津屋崎に行っていたのだと思います。
そのために館も必要だったし、その館を自分の知行地の中で津屋崎に近い場所に建てたのだと推測します。

 津屋崎に近い場所なら畦町に近い所の「宗像宮道」の道標が建っている八並の外れがもっと近いと思うのに、なぜ、山の中に館を建てたのだろうか?
それは、つまらないプライドでしょうね。武士である自分が民百姓の家より下(低地)に館を造ることは、武士の沽券(こけん)にかかわることで、できなかったのでしょう。それで民百姓の家より上に屋敷を造成して、そこに館を造ったのだと思います。

 その後、延宝 3年(1675)の吉田知年(ちかとし)の子供の吉田増年の時代に領地が宗像郡から御笠郡に替わりました(五千余石)。 それに伴ない、上記の巴屋敷(ともえやしき)も壊されました。
結局、ここの 殿ん屋敷(巴屋敷)は寛文8年(1668)〜延宝 3年(1675)の7年間あったという事になります。



◆◆◆◆◆  もう一つの殿ん屋敷(福津市八並) ◆◆◆◆◆ 場所はここ (中心の”+”辺り)

 八並には、もう一つ『殿ん屋敷』と言われる所があります。そこは八並公民館の横から入り八並不動尊入口を過ぎて50m程度行った所を左に曲がり行った谷の奥にもう一つの『殿ん屋敷』があります。 許斐山(このみやま)に連なる峰の山麓になる場所で「小田裏」という地名です。
ここに屋敷を建てたのは黒田藩の家老だった吉田六郎大夫増年です。吉田増年は上記の山ノ口『殿ん屋敷』の吉田知年の子供で、初代 吉田六郎太夫長利(壱岐守)から言えばひ孫です。

 この吉田増年は黒田藩の家老をしていましたが、病気のために引退して、貞享(じょうきょう)5年(1688年)に八並の地に来たようです。家老までした人がなぜ、こんな田舎に館を造ったのか?
一説では幼い時に父親である吉田知年に連れられて、山ノ口にあった『殿ん屋敷』によく来て遊んでいた。その思い出が忘れられずに引退したあとも、この八並に来て「小田裏」に屋敷を造った。 そのような説もあります。実際にどういう理由で八並に来たのかは定かでありませんが、館を造った場所が寂しい所なので、人に会いたくなかった事は確かだろうと思います。
吉田家の知行地は宗像郡から御笠郡に変わっていましたが、吉田増年が家老を辞めた翌年の貞享四年(1687)に吉田家の知行地は再び御笠郡から宗像郡(八並、内殿、野坂、ほか)に変わりました。
知行地が宗像郡になった翌年の貞享5年(1688年)に八並小田裏の『殿ん屋敷』ができました。

 それと、何の病気で家老を引退したのかが気になりますが、それについて書いた文書は残っていないようです。私の想像では、今でいう「うつ病」だと推測しています。
吉田増年は49歳の時に家老を引退し、八並に来て64歳で亡くなっています。今でいうガンや心臓病や腎臓病のような身体的な病気なら、それほど生きなかったと思うのです。心の病いだから人里離れた所で、 知っている人と会わない生活をひっそりとしたかった。それで八並の山の中に館を建てた。これが私が勝手に推測する八並に館を建てた理由です。
吉田家伝録(吉田家の文書)には「世事を聞かず農夫を友として樹草を愛した」と書いてあるそうだから、静かな環境で「うつ病」も治り、自然の中でゆったりした生活をしたようです。

 この八並小田裏の『殿ん屋敷』は吉田増年(1638〜1702) が亡くなった後も子供の吉田治年(1659〜1739) が引き継ぎ、結局、貞享5年(1688年)から享保8年(1724年)までの35年間、吉田家の隠居所として使用されました。

 その後、八並小田裏の『殿ん屋敷』がどうなったかは定かでありませんが、小田裏の『殿ん屋敷』の谷の入口にある青い屋根の家の小田さんが近年まで住んでいたそうです。 屋敷跡と思われる場所に瓦の破片などがあるのは小田さんの家の遺物で、昔の『殿ん屋敷』とは関係ないようです。ちなみに八並には「小田」という名字がむちゃくちゃ多いです。


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 余談ですが、観光ふくつ15号(軍師 官兵衛)のパンフレットを見ていたら、もう一つの殿ん屋敷(小田裏の殿ん屋敷)の事が1行書いてあった。私が調べた内容と少し違うようだ。パンフレットでは「小田裏の殿ん屋敷」も知年さんが造ったようになっているが、 吉田知年(1613〜1673)で「小田裏の殿ん屋敷」が出来たのは貞享(じょうきょう)5年(1688年)ですから、吉田知年さんは亡くなった後です。知年さんの子供の吉田増年(1638〜1702)が造ったというのが正しいと思います。

 
 


 ◆ 『太閤水』の近くに『殿ん屋敷』と言われる場所がある。そこは黒田藩の重臣である吉田知年の館があった場所
『太閤水』の近くに『殿ん屋敷』と言われる場所がある。そこは黒田藩の重臣である吉田知年の館があった場所

 ◆ 道には瓦や壺と思われる破片がたくさんある
道には瓦や壺と思われる破片がたくさんある

 『殿ん屋敷』の案内板もありません。また、『殿ん屋敷』はここだ。とピンポイントでは分からないようです。この辺りという事のようです。
道なりに行き、突き当りは比較的最近まで屋敷であったような雰囲気です。小さなツゲの木もありました。畑にツゲの木は植えないでしょうから、最近まで屋敷だったと想像します。
そこが、昔に吉田知年(ちかとし)が館を建てた所かもしれません。

 また、右の段の奥に入ると祠(ほこら)があります。祠(ほこら)までは人が通った跡があるので、ときどき誰かお参りしているようです。 祠(ほこら)は何を祀っているのかわかりませんでした。裏に年月らしきものと祠を奉納した人の名前がありましたが、年月は判読できませんでした。 題はコンクリートですが祠は古そうです。
この祠(ほこら)のある所も屋敷だったような雰囲気です。

 ◆ ここは屋敷であったようだ。ここが『殿ん屋敷』か?
ここは屋敷であったようだ。ここが『殿ん屋敷』か?
 ◆ 小さいがツゲの木もあるので屋敷だったと思われる
小さいがツゲの木もあるので屋敷だったと思われる

 ◆ 右の段の奥に行ってみる
右の段の奥に行ってみる
 ◆ 奥に祠(ほこら)があるようだ
奥に祠(ほこら)があるようだ

 ◆ 下がコンクリート台なので新しいのかな?
下がコンクリート台なので新しいのかな?
 ◆ つい立を外すと何かある?
つい立を外すと何かある?

 ◆ 何を祀っているのか分からない
何を祀っているのか分からない
 ◆ 裏に年月などが彫ってあるようだが判読できない
裏に年月などが彫ってあるようだが判読できない
 ◆ ここも屋敷であったようだ
ここも屋敷であったようだ

◆ 入口は一番上の家の下の道を入る
入口は一番上の家の下の道を入る
 ◆ この道を入る(案内板はない)
この道を入る(案内板はない)
 ◆ 動画案内(詳細版 約5分)
殿ん屋敷の動画案内


■■■■■ もう一つの『殿ん屋敷』 ■■■■■


◆ 八並公民館の横を入り八並不動尊入口の先の谷の奥にもう一つの『殿ん屋敷』である小田裏の『殿ん屋敷』がある
八並公民館の横を入り八並不動尊入口の先の谷の奥にもう一つの『殿ん屋敷』である小田裏の『殿ん屋敷』がある

 ◆ 八並不動尊の入口を過ぎて谷を上がる
八並不動尊の入口を過ぎて谷を上がる
 ◆ 先の道を上がる
先の道を上がる

 ◆ 許斐山(このみやま)に連なる峰の山麓になる場所 (矢印の辺りが、小田裏の『殿ん屋敷』の場所)
許斐山(このみやま)に連なる峰の山麓になる場所 (矢印の辺りが、小田裏の『殿ん屋敷』の場所)

 ◆ 道には竹が倒れている
道には竹が倒れている
 ◆ 堤(つつみ)がある
堤(つつみ)がある

 ◆ 「小田裏の池」と言う溜池(ためいけ)
「小田裏の池」と言う溜池(ためいけ)
 ◆ 池の西には行けそうだ
池の西には行けそうだ
 ◆ 道が塞がれていて池の奥には回れない
道が塞がれていて池の奥には回れない

 ◆ 互(かわら)の破片が落ちている
互(かわら)の破片が落ちている
 ◆ 瓶(かめ)もある
瓶(かめ)もある

 ◆ 屋敷があったと思われる場所。 この辺りは「八並小田裏」という地名
屋敷があったと思われる場所。 この辺りは「八並小田裏」という地名

 ◆ 谷の入口の小田さんの家
谷の入口の小田さんの家
 ◆ 動画案内(詳細版 約2分)
もう一つの殿ん屋敷 動画案内


■■■■■ 八並(やつなみ) 関連のページ ■■■■■ ==========================================*

許斐山(このみやま)
八並不動尊大祭
八並の庚申堂
・ 太閤水と殿ん屋敷



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