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◆◆◆◆◆ 殿ん屋敷(福津市八並) ◆◆◆◆◆ 場所はここ (中心の”+”辺り)
太閤水のある山ノ口地区に『殿ん屋敷』と言われる場所があります。『殿屋敷』でなくて『殿ん屋敷』と言っているようです。そこは黒田家臣を代表する「黒田24騎」にも選ばれている初代 吉田六郎太夫長利(壱岐守)の孫の吉田知年(ちかとし)が寛文8年(1668)に建てた館があった場所です。
館と言っても吉田知年(ちかとし)は黒田藩の重臣ですから、ここで暮らすわけにはいきません。用事があり、この近辺に来た時に、この館で過ごしました。今でいう別荘のようなもので、巴屋敷(ともえやしき)とも言われていたそうです。
吉田知年(ちかとし)の知行地は宗像郡(曲村・有自村・田野村・野坂村、八並村、土穴村内、徳重村、久原村内、元木村)、鞍手(新延村・稲光村)、嘉穂郡(建花寺村・伊川村)でした。合計5,000石ありました。
禄高5,000石は黒田藩主の親族を除いて藩の中でもトップクラスだと思います。
その吉田知年(ちかとし)がなぜ、この山ノ口に館を建てたか? それは自分の知行地の中で一番津屋崎に近い場所だったからです。その当時 吉田知年(ちかとし)は津屋崎の干拓や塩田開発を責任者として熱心に行っていました。
寛文6年(1666)には宗像郡内の15歳以上60歳までの成人を総動員して約650mの「寛文の石堤」を完成させています。その後も塩田の開発など行なっていますから、頻繁に津屋崎に行っていたのだと思います。
そのために館も必要だったし、その館を自分の知行地の中で津屋崎に近い場所に建てたのだと推測します。
津屋崎に近い場所なら畦町に近い所の「宗像宮道」の道標が建っている八並の外れがもっと近いと思うのに、なぜ、山の中に館を建てたのだろうか?
それは、つまらないプライドでしょうね。武士である自分が民百姓の家より下(低地)に館を造ることは、武士の沽券(こけん)にかかわることで、できなかったのでしょう。それで民百姓の家より上に屋敷を造成して、そこに館を造ったのだと思います。
その後、延宝 3年(1675)の吉田知年(ちかとし)の子供の吉田増年の時代に領地が宗像郡から御笠郡に替わりました(五千余石)。 それに伴ない、上記の巴屋敷(ともえやしき)も壊されました。
結局、ここの 殿ん屋敷(巴屋敷)は寛文8年(1668)〜延宝 3年(1675)の7年間あったという事になります。
◆◆◆◆◆ もう一つの殿ん屋敷(福津市八並) ◆◆◆◆◆ 場所はここ (中心の”+”辺り)
八並には、もう一つ『殿ん屋敷』と言われる所があります。そこは八並公民館の横から入り八並不動尊入口を過ぎて50m程度行った所を左に曲がり行った谷の奥にもう一つの『殿ん屋敷』があります。
許斐山(このみやま)に連なる峰の山麓になる場所で「小田裏」という地名です。
ここに屋敷を建てたのは黒田藩の家老だった吉田六郎大夫増年です。吉田増年は上記の山ノ口『殿ん屋敷』の吉田知年の子供で、初代 吉田六郎太夫長利(壱岐守)から言えばひ孫です。
この吉田増年は黒田藩の家老をしていましたが、病気のために引退して、貞享(じょうきょう)5年(1688年)に八並の地に来たようです。家老までした人がなぜ、こんな田舎に館を造ったのか?
一説では幼い時に父親である吉田知年に連れられて、山ノ口にあった『殿ん屋敷』によく来て遊んでいた。その思い出が忘れられずに引退したあとも、この八並に来て「小田裏」に屋敷を造った。
そのような説もあります。実際にどういう理由で八並に来たのかは定かでありませんが、館を造った場所が寂しい所なので、人に会いたくなかった事は確かだろうと思います。
吉田家の知行地は宗像郡から御笠郡に変わっていましたが、吉田増年が家老を辞めた翌年の貞享四年(1687)に吉田家の知行地は再び御笠郡から宗像郡(八並、内殿、野坂、ほか)に変わりました。
知行地が宗像郡になった翌年の貞享5年(1688年)に八並小田裏の『殿ん屋敷』ができました。
それと、何の病気で家老を引退したのかが気になりますが、それについて書いた文書は残っていないようです。私の想像では、今でいう「うつ病」だと推測しています。
吉田増年は49歳の時に家老を引退し、八並に来て64歳で亡くなっています。今でいうガンや心臓病や腎臓病のような身体的な病気なら、それほど生きなかったと思うのです。心の病いだから人里離れた所で、
知っている人と会わない生活をひっそりとしたかった。それで八並の山の中に館を建てた。これが私が勝手に推測する八並に館を建てた理由です。
吉田家伝録(吉田家の文書)には「世事を聞かず農夫を友として樹草を愛した」と書いてあるそうだから、静かな環境で「うつ病」も治り、自然の中でゆったりした生活をしたようです。
この八並小田裏の『殿ん屋敷』は吉田増年(1638〜1702) が亡くなった後も子供の吉田治年(1659〜1739) が引き継ぎ、結局、貞享5年(1688年)から享保8年(1724年)までの35年間、吉田家の隠居所として使用されました。
その後、八並小田裏の『殿ん屋敷』がどうなったかは定かでありませんが、小田裏の『殿ん屋敷』の谷の入口にある青い屋根の家の小田さんが近年まで住んでいたそうです。
屋敷跡と思われる場所に瓦の破片などがあるのは小田さんの家の遺物で、昔の『殿ん屋敷』とは関係ないようです。ちなみに八並には「小田」という名字がむちゃくちゃ多いです。
余談ですが、観光ふくつ15号(軍師 官兵衛)のパンフレットを見ていたら、もう一つの殿ん屋敷(小田裏の殿ん屋敷)の事が1行書いてあった。私が調べた内容と少し違うようだ。パンフレットでは「小田裏の殿ん屋敷」も知年さんが造ったようになっているが、
吉田知年(1613〜1673)で「小田裏の殿ん屋敷」が出来たのは貞享(じょうきょう)5年(1688年)ですから、吉田知年さんは亡くなった後です。知年さんの子供の吉田増年(1638〜1702)が造ったというのが正しいと思います。
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