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◆◆◆◆◆ 1里塚の痕跡を再調査 ◆◆◆◆◆
福津市図書館、古賀市図書館、ユリックス図書館に行き、旧唐津街道や各市史関係の本を片っ端から調査しました。
どこかに一里塚のことが書いてあるはずだと思いましたが、なかなか無くて苦労しました。約50冊は調査しました。
それで少しありました。下記の本に書いてありました。私が探したところでは、この程度しか一里塚のことは書いてなかったです。
● 大里から博多へ そして唐津へ 唐津街道 ( 著者 河島悦子 )1999年12月 8日発行
【43ページ】赤間宿〜宮田峠 ※ 画像
・伊能忠敬測量日記
左側曲村、宮田川、石橋六間。左右曲村枝宮田字宮田峠、左右田久村、 一里塚あり、箱崎より七里なり、字小峠、右側徳重村、右八町ばかり古城跡緑の城山という。黒川刑部隆尚の
居城という。左側陵厳寺村、左右同じ。
左右赤間村、町並み人家続き、家百五十六軒、止宿所前、即ち一里二十九町九間、馬駅、昼休新屋勘三郎。
右に制札、左に領主の茶屋、左浄土宗受岳山法念寺、木屋瀬、芦屋道追分分印を残す。三町一間一尺。
上記に記載している場所はおおまか、この辺り(マピオン 中央 ”+”あたり)
なおこの位置は畦町の馬塚から約 7,800m(ほぼ2里)の地点になる。
【59ページ】青柳〜太閤水 ※ 画像
・伊能忠敬測量日記
道端に地蔵堂あり。並に飯銅水というあり。太閤名古屋御出陣に、この水をのまるるという。左右に一里塚あり、左ばかりに上府村、右側ばかりに小竹村、左右青柳村枝神田、・・・(後略)
上記に記載している場所はおおまか、この辺り(マピオン 中央 ”+”あたり)
なおこの位置は畦町の馬塚から約 12,400m(ほぼ3里)の地点になる。
●古賀町誌 (編集 古賀町誌編さん委員会) 昭和六十年十一月一日 発行
【67ページ】町の自然環境 ※ 画像
新原の一里塚には老松が向かい合って二本残っていたが、昭和五年の台風でたおれた。・・・(後略)
上記に記載している場所は新原なので、おおまか、この辺り(マピオン 中央 ”+”あたり)
なおこの位置は畦町の馬塚から約 6,300m( ほぼ2.5里)の地点になる。この地点の距離が中途半端だ。なぜか?
前でも書きましたが文化3年(1806年)の旅行記である筑紫紀行にはこのように書いてあります。
「小坂を上り下りして三十丁計行けば畦町宿。青柳宿より是まで二里。人家六十七軒茶屋あり・・・・・」 これからも分かるように青柳宿―畦町宿の間の「旦ノ原」越えは小坂が多かったようだ。
今の県道503号線は山を削り、谷を埋めて、なだらかな坂道になっていますが、昔は自然の地形のままだったので、小さな谷を下り、そして上り、そして下り、上りして今より距離も長かったと思われます。歩く時間もかかったと想像できます。
だから、一里塚は 単純に 今の 3.92km を1里にするのでなくて 3Km 程度を1里にしたのだろうか? それなら納得できるのだが・・・・なぜかすっきりしない。
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