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◆◆◆◆◆ 岡田宮(岡田神社) ◆◆◆◆◆
岡田宮(おかだぐう)はJR黒崎駅の南方向に約500m行った所にある八幡西区岡田町にあります。
毎年7月に開催される黒崎祇園山笠は黒崎地区の岡田宮、春日神社、一宮神社に奉納されますが、その中にある岡田宮です。
● 岡田宮(岡田神社)の由緒(現地案内版より転載)
古代洞海、菊竹ノ浜(貞元)に熊族が祖神を奉斉した地主神で岡田宮と称す。
神武天皇、日向国より東征の途次本宮に詣り天地神祇(八所神)を親祭し、ここに一年留まり給ふ由「古事記」にあり、神功皇后、三韓征伐の折りに熊手出岬(皇后崎)に到り、
当宮に詣り八所神を親祭す。
これを岡田ノ三宮と称し「天」「地」「人」三才に表し神輿を菊竹ノ水門にて蓬莱、方丈、瀛州(権内裏)三嶋に捧げ神事を奉行し、在庁官人達これを輔けて行粧厳重なりと伝えられています。
古来より当地は北九州における海陸路の要(洞海舟溜、皇后崎津、太宰府官道)に位置し、皇室、公家武門、武将の祟敬あつく祭礼法度を定め社領十八所、末寺九坊と栄えたり。
建久5年(1194年)、征夷大将軍・源頼朝の御家人・宇都宮上野介重業、平家討伐の功によりて筑前国遠賀・鞍手両郡のうち三千町を賜わり、当宮の祭祀を波多野重満大夫藤原兼直に奉仕せしむ。
永禄2年(1559年)、大友宗麟の兵火に遭い社殿焼亡するも、永禄8年(1565年)、麻生上総介元重、社殿を再興せしむ。此れの棟札今に残れり。
慶長十年(1605年)、黒崎築城のさいに筑前六宿の起点となり、現在地御奉遷座いたし、福岡藩祈年社、黒崎宿の産土神と定格され、皇后崎津の舟子を舟町(黒崎港)に移し、
京阪船便が定められ以来長崎街道参勤の九州大小名等の祟敬高く造営、社参奉弊等厚く、また上り下りの文人墨客等の来社数多く、現在は黒崎地域四十五町の産土神と敬仰されています。
● 御祭神
・中殿(岡田宮)
神日本磐余彦命[神武天皇](カムヤマトイワレヒコノミコト)
・右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
・左殿(八所宮)
高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
神皇産霊神(カミムスビノカミ)
玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
生産霊神(イクムスビノカミ)
足産霊神(タルムスビノカミ)
大宮売神(オオミヤノメノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)
御膳神(ミケツカミ)
● 年間祭事予定
一月一日 元旦祭
二月十一日 建国祭
四月三日 春祭・神武天皇式年祭
七月二十一日 祇園祭
七月二十九日 夏越祭
九月十三日 疫神祭
九月二十四日 放生祭
十月十一日 御穀祭
十月十八日 例大祭
十月十九日 例大祭
十一月下旬 大麻頒布式・新穀祭
十二月三日 蛭子祭
十二月三十一日 大祓式
現地の由緒書きは表現が難しいですね。神武天皇が日向の国より東征の途上、ここで一年間政務をみられたそうで、
『古事記』には、こう書いてある。「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、
東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。
そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。・・・・・」
ここに書いてある「岡田宮で1年過ごした・・・」の岡田宮がこの岡田宮であるとの事のようです。
ちなみに黒崎祇園山笠が奉納される神社の一つに一宮神社があるが、そこも神武天皇が1年間滞在した伝説がある。しかも、この岡田宮の元宮は一宮神社らしいので、両神社に神武天皇の滞在伝説があるのは頷(うなず)ける話である。
そして、福岡県岡垣町芦屋にある神武天皇社 (じんむてんおうしゃ)にも『古事記』に出てくる岡田宮はここである。と言われている。福岡県福津市津丸にある神武神社にも神武天皇滞在説が残っている。どこが本当だろうか?
それと由緒書きに出てくる神功皇后の話と「皇后崎」も一宮神社の隣の「皇后崎公園」の謂れ(いわれ)にある話ですね。
ついでに書くと神武天皇は日本の最初の天皇、神功皇后は14代天皇である仲哀天皇の后(きさき)です。
余談ですが、黒崎祇園山笠が奉納される黒崎地区の三つの神社の宮司さんは一宮神社宮司 波多野 正信氏、岡田宮宮司 波多野直之氏、春日神社宮司 波多野 雅夫氏 全部、名字が「波多野」だが親戚関係かな?
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