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◆◆◆◆◆ 高杉晋作(1839.9.27〜1867.4.14) ◆◆◆◆◆
高杉晋作は萩藩士高杉小忠太春樹の長男として萩の城下菊屋横丁で生まれました。
高杉家は200石取りで萩藩の重要な役職についていました。上級武士だったようです。
盟友であった久坂玄瑞(くさかげんずい)のすすめにより吉田松陰の門下生になるのですが、下級武士であった吉田松陰のことを「先生」とは呼ばなかったようです。
吉田松陰も気をつかって「高杉さん」と「さん」付けで呼んでいたという話が残っています。なかなか頑固者であったようです。そうは言っても松下村塾にきて熱心に
話は聞いていたようです。この吉田松陰の尊皇攘夷(そんのうじょうい)の話が彼の後の行動に大きく影響したのは間違いないでしょう。
明治維新で最大の功労者は「高杉晋作」と言っても過言ではないでしょう。坂本竜馬は司馬遼太郎の「竜馬が行く」の
小説でやけに有名になっていますが、彼の功績は薩長同盟の仲介をしたことぐらいでしょう。これも勝海舟の使い走りで
仲介したにすぎないわけですからね。竜馬は一生涯「勝海舟」の使い走りでしかなかったと思いますよ。彼は海運王になりたい野望はあったでしょうが
、将来の日本国はどうあるべきだ、とかの思想はなかったのではないでしょうか?(竜馬フアンの方ごめんなさい)。
そのてん、高杉晋作は1864年12月15日に下関市長府の功山寺で奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵し、藩内の俗論派を追放し
明治維新に邁進しました。彼は実際に行動し明治維新を成し遂げた立役者でした。惜しくも明治維新の成功を見ずに下関市新地町で
慶応3年(1867)4月14日に結核で病死しました。
明治維新の大政奉還が1867年10月14日ですから、あと半年長生きしてほしかったですね。27歳と8ヶ月でした。あまりにも短い
生涯でした。高杉晋作の墓は下関市吉田の東行庵(とうぎょうあん)にあります。
辞世の句として「おもしろきこともなき世をおもしろく…」とよんだといわれています。
晋作を看病した野村望東尼(のむらぼうとうに)が
「すみなすものは心なりけり」と続けたともいわれています。
この句は亡くなる数ヶ月前によまれたという説もあるようです。「おもしろくない世をおもしろくするのは、心の持ち方次第」
という意味でしょうか。
《ことばの意味》
※尊皇攘夷(そんのうじょうい)…天皇を中心に外国の干渉を避け政治を執り行おうとする思想
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