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◆◆◆◆◆ 関ヶ原の合戦と毛利 ◆◆◆◆◆
中国地方の8ヶ国を支配していた毛利氏は、慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられました。
しかし、策士黒田如水の「参戦しなければ、どちらが勝ってもお家安泰ですぞ」という策謀を信じて、
毛利藩主力部隊は関ヶ原に参戦しませんでした。関ヶ原の戦いは東軍7万4千人と西軍8万4千人の戦いでした。
参戦した毛利系列の毛利・吉川の1万6千は戦闘に参加せず、小早川の1万5千は途中で東軍に寝返りました。
毛利が本気で出陣していたら毛利だけで10万人は集めることができたようです。これが全部西軍に付いていたら
歴史は変わってたかもしれません。
西軍は負けたが参戦していないので「お家安泰」と思っていたら、たぬきジジイの家康は「わしは聞いておらん」
と知らん顔のハンベエを決めこみ、結局毛利藩は120万石から29万石へ激減。今の中国地方を全部領地にしていた
毛利藩は今の山口県である周防と長門の2国となってしまいました。
その後も暖かい瀬戸内海側への城の建設は徳川の許可が下りず、辺境の寒い地であった萩に
城を築くことになるなどいろいろな、いじめを徳川家から受けますが、忍の一字で耐え忍ぶしかなかったのです。
「憎っくきは徳川」の気持ちは多いにあったでしょう。
ちなみに関ヶ原の合戦で西軍に布陣はしたが戦闘しなかったのは「毛利」「長宗我部」「島津」です。
これは後の「長州藩」「土佐藩の下士」「薩摩藩」です。これらの藩は関ヶ原の戦いでは西軍にいながら徳川に味方して
戦闘しなかったのに、後の徳川政権下では影にひなたに、いろいろ弾圧された藩です。
後に、これらの藩が中心となり明治維新が成し遂げられたのですから、300年前の怨念(おんねん)が明治維新の原動力となったとも言えます。
◆◆◆◆◆ 毛利長府藩 ◆◆◆◆◆
毛利藩の本家(毛利元就→長男隆元→長男輝元)は萩に城を築いていましたが、毛利元就の四男である毛利秀元は長府を中心に3万6千石(のちに5万石余)を
治めることとなり毛利長府藩が創設されました。これが現在の城下町長府のはじまりです。
いまも古江小路などには長屋門や練塀がつづく、しっとりした町並みが残っています。
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