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長崎県対馬市厳原町厳原西里・金石
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◆◆◆◆◆ 万松院(ばんしょういん) ◆◆◆◆◆
万松院(ばんしょういん)は対馬藩主である宗家の菩提寺で元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って建立した菩提寺で、国の史跡に指定されています。
また、万松院(ばんしょういん)は数度の火災により焼失し、今の本堂は明治12年(1879年)に建造されたものです。桃山式の正門と仁王像は焼失から免れ創建当時のままで対馬最古の建物です。
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◆ 【万松院】元和元年(1615年)の創建当時のままの桃山式の正門と仁王像 ※本堂は工事を行っていた
◆ これも創建当時のままの仁王像
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万松院(ばんしょういん)には132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる石段があり幽玄(れいげん)な雰囲気を醸し出しています。この石段を上った場所に宗家10代〜32代までの墓所である御霊屋(おたまや)があり、
巨大な墓がずらりと並んでいます。その規模は大大名なみの規模で、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに日本三大墓地の一つとも言われています。
また、墓所の手前に樹齢1200年と言われる万松院の大スギが3本あり、杉では対馬一の樹齢を誇っています。
対馬藩の表向きの石高は10万石でしたが、実際にはほとんど米はとれず「無高」でした。しかし地政的に、軍事、外交上の要地だったため、幕府は政策・意図的に石高を多めに表示し、
家格を上げたそうです。対馬藩財政のかなりの部分を日朝貿易に頼っていたようです。
また、万松院には徳川歴代将軍の位牌(本物とまったく同じ複製)などもあります。
私論ですが、この巨大な墓地や徳川歴代将軍の位牌などは朝鮮国から軽く見られないための政策的な意味もあったのではないかと思うのです。
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◆ 万松院本堂 ※工事中だったので過去に撮った写真
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◆ 朝鮮国王から贈呈された三具足と徳川歴代の位牌
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◆ 百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる132段の石段
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◆ 藩主の巨大な墓
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◆ ここは日本三大墓地の一つ
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◆ 樹齢1200年と言われる万松院の大スギ
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◆ 墓地の参道に架かる石橋
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◆ 境内にあるヒトツバタゴの花が満開だった
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■■■■■ 金石城跡(かねいしじょうあと) ■■■■■
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万松院に隣接して金石城跡(かねいしじょうあと)があります。
この金石城(かねいしじょう)は享禄元年(1528)10月に宗氏一族の間での内紛でそれまでの屋形が焼失したため、島主の宗将盛(そう まさもり)が、もと国分寺のあった金石の地に移って、
屋形を築いたのが始まりです。
延宝6年(1678)桟原(さじきばら)に新しい屋形が完成するまでの150年間 宗家の居城でした。
ここ金石城には平屋の館だけで天守閣がありませんでした。
朝鮮通信使の一行もまずここに宿泊し、そして日本本土に渡ったそうです。
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◆ 朝鮮通信使も眺めたであろう旧金石城庭園 (きゅうかねいしじょうていえん)
◆ 平成2年に再建された櫓門(やぐらもん)
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金石城跡(かねいしじょうあと)は城壁、城門の跡、庭園の池などが残っており対馬市役所の近くに復元された櫓門(やぐらもん)があります。
また、園内に李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑(りおうけそうけ ごけっこんほうしゅくきねんひ)があります。
これは宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)と朝鮮の李王朝26代の高宗と側室・梁氏との間に生まれた徳恵翁主(とくへおんじゅ)【日本では通称:李徳恵姫(り とくえひめ)】が
結婚したことを祝う記念碑で当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々が建てたものです。
今ここは韓国人観光客が必ず訪れる場所で、韓国人ガイドさんは一段と声を大きくして徳恵翁主(とくへおんじゅ)の数奇な運命と日帝の陰謀をここぞとばかり熱弁しているようです。
・・・・・“なんだかな〜” と思うのです。
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◆ 城門の跡かな?
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◆ 李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑
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◆ 万松院の動画案内
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徳恵翁主(とくへおんじゅ)について
徳恵翁主(とくへおんじゅ)は1912年5月25日に朝鮮の李王朝26代の高宗と側室・梁氏との間に生まれました。
その後1925年、12歳で日本政府の命令で日本に留学させられ、女子学習院に入学し、学習院を卒業してすぐに旧対馬藩主の伯爵の子息、宗武志と結婚したのです。
しかし、生まれつき精神的に深刻な疾患を抱えており、子どもを生んでまもなく再発。武志は献身的な介護を行いましたが症状は悪化するばかりでした。
武志は徳恵を非常に寵愛し、2人の仲は睦まじかったのですが、1955年に徳恵の実家・李家から宗家に対する離縁要求により武志の反対も空しく徳恵は夫との離婚を余儀なくされ
徳恵翁主(とくへおんじゅ)が47歳になった1962年に帰国しています。
帰国後は昌徳宮内楽善斎に住み、1989年4月21日同所にて死亡しました。
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◆ 新婚当時の宗武志と徳恵翁主(とくへおんじゅ)
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韓国では徳恵翁主(とくへおんじゅ))【日本では通称:李徳恵姫(り とくえひめ)】の精神・知能疾患について「日帝によって強制的に単身で日本に留学させられた上、
醜い日本人の男と無理やり結婚させられ、子供まで妊娠・出産させられた挙句、夫を含む宗家一族はもとより、
その女中たちにまで虐待され続けた」事が原因である」 と強硬に主張し続けています。
韓国人の観光ガイドが李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑の前で何を言っているのか分かりませんが、一段と大きな声を張り上げて言ってるのを見ると、たぶん上記のような事を言ってるのだと思います。
左の写真は新婚当時の宗武志(そう たけゆき)と徳恵翁主(とくへおんじゅ)です。韓国は「醜い日本人の男と・・・・」と宗武志(そう たけゆき)の事をボロクソに言っているようですが、
実際は、なかなかイケメンのいい男です。そして性格もおとなしく優しそうですね。この写真だけで二人の仲が良かったことが分かります。
韓国はいいかげんな事を言うのは止めろ! 宗武志は徳恵翁主(とくへおんじゅ)には、もったいないくらいのいい男だ。結婚してやったのだ有難く思え、ボケナスが!・・・
・・・・これは、これは私としたことが、下品な言葉を発して失礼しました。 m(__)m
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