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長崎県長崎市丸山町・寄合町
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◆◆◆◆◆ 長崎丸山花街跡 ◆◆◆◆◆
長崎では、丸山町、寄合町を総称して丸山と呼んでいるようです。丸山は日本三大花街のひとつと言われ、
寛永19年(1642)市内に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたのが始まりです。
丸山は江戸時代、海外貿易の発展とともに栄華を極め、上方(かみがた)などから多くの貿易商や知名士(ちめいし)が集まり、
元禄時代(1688〜)に全盛期を迎えました。丸山の遊女の数は、元禄5年(1692)には1,443人を数えるほどでした。
また、江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽(らいさんよう)や幕末の志士・坂本龍馬、三菱の創始者 岩崎弥太郎なども訪れています。
長崎丸山花街跡 動画案内(約9分)
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◆ 長崎丸山の入口になる思案橋 ※クリック-->丸山地区のマップ
◆ 長崎市油屋町にある長崎電気軌道の思案橋停留所
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丸山に行くには油屋町にある長崎電気軌道の思案橋停留所付近が表の入口だったようで、行こうか戻ろうか思案したので、
ここにあった橋を「思案橋」と言ったようです。ここにあった水路は暗渠化され今、橋はありませんが欄干の一部が復元されて保存されています。
この周辺は長崎最大の歓楽街で飲み屋さんが多くあります。
長崎ぶらぶら節は長崎市に伝わる民謡で単に『ぶらぶら節』とも言います。『ぶらぶら節』には多様な歌詞があり「正確な歌詞」というものは存在せず、
自由度が高い歌だそうです。
長崎東検番の名奴「愛八」が昭和6年に「ぶらぶら節」をレコードに吹き込み、世に広めました。
2000年には「なかにし礼」氏の小説「長崎ぶらぶら節」が第122回直木賞を受賞し、
同年、深町幸男監督、吉永小百合主演で東映が映画化し一躍有名になりました。
小説では、この丸山が舞台になっています。
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◆ 思案橋という橋はないが欄干ができている
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◆ 思案橋を入った所の本石灰町通りは飲み屋が多い
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◆ カステラの福砂屋本店
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◆ 福砂屋本店横の船大工町通りも飲み屋さんが多い
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◆ レトロな建物の丸山町交番 ※右は丸山公園
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◆ 丸山公園にある坂本龍馬の像
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◆ 坂本龍馬の銅像のある丸山公園
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■■■■■ 史跡料亭 花月 ■■■■■
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料亭 花月
料亭 花月は寛永19年(1642年)に創業した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に造られた茶屋の名前です。
明治初年大火で一部を焼失しましたが、名園花月の名を惜しんで旧引田屋遺構内に再建されました。
文人墨客(ぶんじんぼっかく)も数多く訪れ、なかでも頼山陽は花月を「養花山館」と名付け、篆刻(てんこく)も残しており、ここが気に入り三ヶ月にわたって逗留したらしい。
幕末、坂本竜馬もよくここへ来たようで、「竜の間」の床柱には、坂本龍馬がつけた刀傷の跡が生々しく残っています。
なかにし礼著「長崎ぶらぶら節」の舞台となったところで、丸山芸者愛八と古賀十二郎の歌探しがここから始まります。
長崎ぶらうら節の一節に「遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて丸山ぶーらぶら ぶらりぶらりというたもんだいちゅ」
と歌われており、当時の人気ぶりが分かります。
江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場であったようです。昭和35年には長崎県の史跡に指定されました。
● 丸山地区の案内図(現地の案内図より転載)
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◆ 史跡料亭 花月 (なかにし礼著の「長崎ぶらぶら節」の舞台となったところ)
◆ 料亭花月の門前にある去来の句碑
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◆ 丸山本通り。右は長崎検番(検番とは芸者置屋さんの管理事務所)
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◆ 丸山本通りを望む
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◆ 大正時代の丸山本通りの様子
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◆ 明治後期から大正期の写真(現地説明板から転載)
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◆ 昔の名残を残す家(三島屋)唯一残る遊郭建築の建物
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■■■■■ 梅園身代り天満宮 ■■■■■
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梅園身代り天満宮
芸妓・愛八をはじめ、多くの遊女が訪れたという天満宮!
《現地案内看板から転載》
この天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
元禄六年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、
身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、
また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。
さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。
また、第二次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。
● 梅園天神の歯痛狛犬
江戸時代の天保11年(1840)に奉納された梅園の狛犬さまは昔から願いをかけると必ず叶えてくださるということで多くの人々に親しまれています。
また、歯の痛みがある者が狛犬様の口に水飴を含ませると、たちまち痛みを取ってくださるそうです。
当時、このいわれは日本各地にまで伝わり多くの参拝者で市が立つほどでした。現在の狛犬さまは昭和12年(1937)に奉納された3代目です。
● 梅塚(梅の玉垣)
身代り天満宮の「身代り」を「みだい」と読み、遊女や芸者衆たちは自分たちの生活に苦労が無い事をお願いして参詣していたようです。
その際、境内にある梅塚(梅の玉垣)の中に自分の家で食べた梅干の種を天神様と呼び、わざわざ持って来ていたそうです。
今も梅塚の中を見ると梅の実がいっぱいありました。
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◆ 梅園通りに建つ「身代り天満宮」の鳥居
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◆ 梅園身代り天満宮の白い鳥居
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◆ 梅園身代り天満宮の社殿
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◆ 梅園大神の歯痛狛犬
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◆ 恵美須石(恵比須の顔に見える?)
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◆ ぼけ封じ撫で牛
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◆ 「長崎ぶらぶら節」記念碑
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◆ 梅塚(梅の玉垣)
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◆ 中には梅干の種がいっぱい
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◆ 境内にある七力大明神
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■■■■■ 中の茶屋(市指定史跡) ■■■■■
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中の茶屋
《現地の説明板より転載》
丸山の遊女屋中の筑後屋が、茶屋を設けていたところで、中の茶屋と呼ばれ、また唐人には千歳窩(せんざいわ)と名付けた。
この名にに因んで、別名を千代の宿ともいい内外の文人墨客が好んで遊び親しんだ。
長崎奉行の市中巡検の際には、その休憩所にあてられることもあった。幕末期にできた民謡「長崎ぶらぶら節」には、
「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読み込まれている。江戸時代中期に築かれた庭園として、市内寺院のものを除けば、ここは数少ない遺跡の一つである。
中の茶屋の中には清水崑(しみず こん)展示館があります。清水崑(しみず こん)は長崎市出身の昭和の漫画家だった人です。
風刺性や文学性豊かな政治漫画やかっぱの絵で有名だったようで、展示館は原画3,400点を所蔵していますが、そのうち100点ほどを展示しています。年に2回(不定期)、展示替えを行っているそうです。
この茶屋というのが、どういう役割だったのか私には良く理解できませんが、遊女などとデートする場所だったのですかね? 遊女は年季が明けるまで束縛される身で、
一般の町中に自由に出入りできなかったようなので、花街の中にデートする場所を作ったのでしょうか?(私の推測です)
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◆ 中の茶屋の入口 (中の茶屋は丸山の遊女置屋筑後屋が、茶屋を設けていたところ)
◆ 江戸時代中期に築かれた中の茶屋の庭園
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◆ 中の茶屋
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■■■■■ 玉泉稲荷神社 ■■■■■
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玉泉稲荷神社
玉泉稲荷神社は花月の所から寄合町を上った所にあります。この神社の謂(いわ)れなどは説明板が無く、よく分かりません。
神社の拝殿上部には像や龍や獅子などの彫刻があり、なかなか見事です。
また、神社の隣に寄合町地蔵尊というのがありお地蔵さんが2体ありました。これには説明板がありましたが、細かすぎて理解が難しいのですが、
簡単に書くと、
このお地蔵さんは享保年間(1716〜1735)に作られたものです。だれが作ったかというと、無実の罪で裁きを受ける予定だった金右え衛門と言う人が、
お地蔵様のおかげで無罪になりました。感謝の気持ちで金右え衛門さんは5体の地蔵像を刻み、そのうちの一体だそうです。
● 旧福屋跡(現:中小島公園)
玉泉稲荷神社から少し離れた所に、明治初年まで「福屋」という日本初の西洋料理店があった場所があります。この店に来るために多くの外国人が通っていたからオランダ坂と言うと「丸山オランダ坂」の所の説明板に書いてありました。
それが本当とするなら、外人さんが足しげく通い、けっこう繁盛していたようですね。いつ頃できたのかの情報は持っていませんが江戸時代末期と思われます。今は中小島公園になっています。
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◆ 玉泉稲荷神社
◆ 玉泉稲荷神社の彫刻
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◆ 境内にある寄合町地蔵尊
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◆ 玉泉稲荷神社近くの道
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◆ 旧福屋跡(現:中小島公園)
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■■■■■ 高島秋帆旧宅 ■■■■■
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高島秋帆(たかしま しゅうはん)旧宅 (国指定史跡)
高島秋帆? 何者? ・・・・・ 良く知りませんでしたが、「わが国最初の西洋砲術の第一人者で、鎖国時代の長崎が生んだ最高の人物・・・・」だそうです。
江戸時代後期 1798年9月24日(寛政10年8月15日)〜 1866年2月28日(慶応2年1月14日)に生きた人です。
出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学んで、私費で銃器等を揃え1834年(天保5年)に高島流砲術を完成させました。
そして西洋砲術により、幕府軍隊の近代化を促進したのです。
秋帆の洋式砲術は、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬、河井継之助にも大きな影響を与えたそうです。
この地には秋帆の父が別邸として建てた、二階建ての旧宅があり、別名雨声楼(うせいろう)ともよばれていたが原爆で大破し、
現在は石段と石垣、土塀、井戸、砲痕石などが往時の面影をとどめています。
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◆ 高島秋帆旧宅の入口
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◆ 井戸
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◆ 砲痕石(ほうこんいし)
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◆ 高島秋帆旧宅内石倉
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■■■■■ 長崎丸山界隈その他の名所 ■■■■■
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● 光寿山正覚寺の陰陽石
大きな自然石の陰陽石(男性=陽石、女性=陰石)で、これにあやかると夫婦円満、子宝に恵まれと言われています。
● 一文字地蔵
地元では「このお地蔵様はよー聞いてくれなる」と言われています。つまり、良く願い事が叶うと云う事です。
● 丸山オランダ坂
長崎の中でオランダと付く最初の場所です。
なぜオランダ坂という名前が付いたかには二つの説があります。
(1)鎖国時代、出島オランダ屋敷の出入りを許されていた丸山遊女が、この坂道を通り、玉帯川(今の電車通り)の所から船で行き来していました。
そこからオランダさん行きの遊女が通る坂ということでこう呼んだという説。
(2)明治時代、西洋料理店「福屋(今の中小島公園)」へ居留地の外国人(長崎ではすべてオランダさんと呼ぶ)が丸山の遊里を通らずに、この坂を
通ったという説。
いずれにして、この坂は150年以上の歴史があり「本当のオランダ坂」と言われています。
● 大崎神社
寛永17年(1640)の創建。ここの恵比須さんは、商売繁盛のご利益があり、大変縁起の良いお顔をしているそうだ(入口が閉まっていて入れなかった)
● 金剛院の坂
大崎神社横にある坂道。坂をのぼったところに金剛院如意輪寺という寺がありましたが明治12年3月の丸山大火で焼けました。
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◆ 料亭花月の近くにある光寿山正覚寺
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◆ 正覚寺の陰陽石(夫婦円満、子宝に恵まれる)
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◆ 一文字地蔵(よ〜く願い事を叶えてくれるお地蔵さん)
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◆ 丸山オランダ坂
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◆ 大崎神社
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◆ 金剛院の坂
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丸山の名芸妓だった愛八さんと 「長崎学」の先駆者 古賀十二郎さん
芸妓と学者とは関係ないようですが、愛八が初めて本当の恋をしたのが学者の古賀十二郎さんで、
この二人が失われた昔の民謡である「長崎ぶらぶら節」の採譜の旅にでる話が なかにし礼著「長崎ぶらぶら節」の物語のようです。
(実は私は、まだ読んでいない)
映画では愛八は吉永小百合さん、古賀十二郎は渡哲也さんが演じました。
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◆ 丸山の名芸妓だった愛八さん
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◆ 「長崎学」の先駆者 古賀十二郎
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◆ 長崎丸山花街跡の動画案内
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[ 長崎市の魅力が満載♪ ふるさと納税 長崎県長崎市 特産品 返礼品 ]
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