大久保利通の銅像の観光情報1

大久保利通の銅像


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 大久保利通の銅像は鹿児島中央駅の東北にある高見橋のそばにあります。大久保は洋風な事が好きで家でも洋間に住み,洋服を着て,髪にはポマードを使用していたと言います。それだけに,銅像も洋装で蝶ネクタイにベストを着てモーニングですかね? 丈の長い上着を風になびかせています。風貌も髭を生やして,鋭い眼光で上を見ています。

 この大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。大久保は天保元年(1830)に生まれました。幼名は正袈裟(しょうけさ),通称は一蔵,雅号を甲東(こうとう)と称しました。幕末期,薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方,最後の藩主島津忠義(ただよし)の父,久光の信頼を得て,藩政の改革にも手腕をふるいました。

 薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに,沖永良部(おきのえらぶ)から西郷隆盛を呼び戻し,歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみて,ついに慶応3年(1867)に明治維新が達成されたのです。

 明治維新後も大久保は政界の中心人物として版籍奉還,廃藩置県の実現につとめました。また,欧米諸国を視察し,帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務しました。

 ところが,この頃から西郷隆盛と対立,西南戦争によって竹馬の友(幼馴染)を失ったのです。その大久保も明治11年(1878)に出勤途中を襲われ急死しました。47歳でした。ロンドンタイムスは[大久保氏の死は日本全国の不幸である]と報じたそうです。

 西郷隆盛が自決したのは明治10年9月24日で,大久保が襲われたのが明治11年5月14日ですから,1年の差もなく両巨星は亡くなった事になります。


大久保利通の銅像の観光情報2

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