大分南部の豊後地方に磨崖仏が多い理由


 臼杵の石仏群に代表される大分南部の豊後地方には石仏(磨崖仏)が多くある。磨崖仏(まがいぶつ)とは岩盤に直接浮き彫りした仏のことを言う。大分南部の主な磨崖仏は以下の通りである。
1.臼杵石仏群(臼杵市)
2.高瀬石仏(大分市)
3.岩屋寺石仏(大分市)
4.元町石仏(大分市)
5.菅尾磨崖仏(豊後大野市三重町)
6.宮迫石仏(豊後大野市緒方町)
7.犬飼石仏(豊後大野市犬飼町)
8.普光寺の磨崖仏(豊後大野市朝地町)
 これらの磨崖仏はほぼ作成年代が平安時代から鎌倉時代のものである。誰がなんのために作ったかは定かでないが、有力な説は下記の通りである。

● この時代は畿内を中心として末法思想(まっぽうしそう)の考えがあった。
 末法思想とは11〜12世紀に信じられていた思想で、釈迦の死後1500年たったのちから1万年間は釈迦の教えが地に落ち成仏がかなわない暗黒の世界となる考え方で、ここ九州でもその考えが広まっていた。
 如来(にょらい)にもいろいろあり阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)、釈迦如来(しゃかにょらい)などである。この中で阿弥陀如来は末法の世で極楽往生を保証する仏として12世紀に信仰を集めた仏である。臼杵のホキ石仏群や菅尾磨崖仏などこの仏が中央に置かれている場合が多い。これらから末法の世で人々は極楽往生を祈っていたことがうかがい知れる。結論としてこの時代の背景に末法思想が広くあり、暗黒の世でもなんとか極楽往生をねがう人々の信仰心が磨崖仏を作らせたという説である。

● なぜこの大分南部の豊後地方のみなのか?
 この地方はその時代大神(おおが)氏が統治していた。この大神氏は源平の合戦では、平家の支配にあった九州ではめずらしく源氏につき大変活躍した人物である。大神氏は祖母山を本拠地とする部族であったが領下に豊後水道などの海の要衝もあり操船技術にもすぐれていたらしく、下関の壇ノ浦の合戦では82隻の軍船で大活躍し平家を滅し源氏が勝利したことに大きな力添えをした。
この大神氏の領土内に磨崖仏が沢山あるので、どうも大神氏と関係があるという見方が有力である。

● なぜ畿内のように仏像でなく磨崖仏なのか?
これも大神(おおが)氏と関係している。大神氏は前にも書いたが祖母山を本拠地とする部族であった。伝説では祖母山に住む大蛇と里の娘の間にできたのが大神氏の始まりであるといわれている。祖母山にある穴森神社が大神氏の祖先を祀る神社であり、そこにある大穴が大蛇が住んでいた穴と言われている。
そのようなわけで大神氏は山を信仰しており、その当時信仰の対象となった山の麓の露出した岩盤に仏を刻んだという説が有力である。
その山は臼杵石仏では姫山、高瀬石仏・岩屋寺石仏・元町石仏では高崎山、菅尾磨崖仏・宮迫石仏・普光寺の磨崖仏では祖母山の山々である。

● その後大神(おおが)氏はどうなったか?
 源平の合戦で大活躍した大神氏は当初、源頼朝の信頼も厚かったが、義経と頼朝の仲が悪くなり、大神氏は義経側に付いた。竹田市の岡城は義経を迎い入れるために大神氏が築城したのが始まりと云われている。しかし義経は岡城までたどり着くことができなかった。その後義経に加担した罪で大神氏は流罪となり歴史から消えていった。
大神氏は歴史から消えていったが、彼が作った磨崖仏は残りその後永い間人々の信仰を集めきたのである。


 これらのことは一つの説であり文献等が残っているなどで確実なものではない、しかし状況的に見て信憑性のある有力な説である。

2000年7月23日 記載




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