武蔵塚公園の観光情報1

武蔵塚公園


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 熊本市から阿蘇方面にむかう県道337号線(旧国道57号線)そばの龍田弓削地区に宮本武蔵の墓所の1つである武蔵塚がある。ここは昔は大津街道のそばで老杉が立ち並んでいたという。恩を受けた細川藩主が江戸参勤交代で通るのを草葉のかげで拝したいという武蔵の生前の希望でここに埋葬された。今は墓石のほかブロンズ像や日本庭園,茶室などが設けられ武蔵塚公園として親しまれている。
宮本武蔵は天正12年(1584)[10年という説もある]に美作国吉野郡讃甘村大字宮本(現岡山県英田郡大原町宮本)に生まれたといわれていますが,その前半生とともに明らかではありません。
武蔵は13歳のときに有馬喜兵衛と初めて勝負をして以来,29歳までの間に60余度の勝負をしますが,1度も敗れたことがなかったといわれています。とくに29歳のときに下関の厳流島で小倉の厳流・佐々木小次郎と決闘したことは有名です。しかし,この試合の後,武蔵はその日の内に現在の大分県の中津方面に逃走し以後20余年間の足取りは不明です。
それから20余年後武蔵は[自分は日本一の剣客であることを強調し,ぜひ召抱えて欲しい]と全国の大名に手紙を送りましたが,ほとんど無視されました。武蔵の剣法は喧嘩剣法であり高くは評価されていなかったようです。しかし唯一熊本細川藩の細川忠利から[召抱えてもよい]という返事が来て,武蔵は寛永17年(1640)に熊本に来ました。このとき武蔵は57歳でした。
熊本では客分として十七人扶持300石を受け,千葉城(今の坪井川そばの千葉城町)に住み,剣術および兵法の指南をしました。熊本に来てからの武蔵は今までの武蔵とは違っていました。年老いて終焉の地を求める心のほかに,彼が剣の道から得た真理を世の中の役に立てようという気持ちもあったようです。武蔵はここ熊本で自ら創始した二天一流兵法を大成して[兵法三十五ヶ条の覚書][五輪書]などを著し,茶や禅,書画製作の日々を送りました。熊本に来て5年,武蔵は千葉城の家で正保2年(1645)に62歳の生涯を閉じました。


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